小学館第84回新人コミック大賞青年部門佳作「鬼」(浄土るる)の感想および考察
■たまたま漫画の受賞作を読んだら面白かった。
今回はそういう話です。
ある日の事インターネットをしていたらにゃるら氏のツイートを見て、面白そうだったので読んでみる事にしました。
小学館第84回新人コミック大賞青年部門佳作 「鬼」浄土るる
漫画の大賞というのは存在自体はなんとなく(まああるんだろうな程度)知っていたのですが、ネット上で公式に公開されているんですね、初めて知りました。雑誌掲載が多いイメージでしたので。特に小説関連は。
(あとで気付きましたが雑誌掲載メインでインターネット公開は二番目かもですね。本題の漫画のページに本誌上でのページ数が打ち込まれていたので)
■感想
〇満ち満ちる悪意
最初に感じたのは、漫画全てに満ち満ちる悪意でした。
主人公・江田子豆は明るく陽気な小学生ですが、家庭内では母親から暴力を受けています。彼女には幼稚園児の妹もいますが、母親は嫌な事があると二人に暴力を奮い、子豆は為すすべき事もなくそれを受け入れています。
子豆の世界は悪意ばかりです。母親の虐待・ポンポコ(転校生)へのいじめ・どこかぶっ壊れてる担任教師……と皆歪んでいるように見えます。対し子豆だけは歪んでいません。少なくともそう描写されています。
(あくまで物語としてのいじめという意味。もちろん小学校でのいじめはどこにでもある普通の現象)
悪意はセリフや単語単位でも散りばめられています。
・クソガキ小学校
・「はーいじゃあ席は不登校の石田くんのとこ使っちゃおうか」
・授業中の黒板は落書きばかり
・死ね小学校
ですが、悪意ばかりだからこそ、子豆の異様な明るさ、変なポーズ(自分はこういったシーンがとても好き)陽気さがとても目立ちます。こういった露悪性と、それに相対する主人公の明るさによって、どちらもキャラ(存在)が立っているのです。
ラストではその主人公と悪意が融和する事によってお話をしっかり「締め」られる事ができたのでしょう。また悪意のおかげでお話の中に一貫性が出ているのだと感心しました。
ラストの終わり方については後述。
〇物語について
「鬼」は、一般的な漫画新人賞と比較して、物語性が少々他と異なります。
物語のプロットとしては大別して「主人公には何らかしらの課題があり、その課題達成をし、成長する」というものがあります。また、ほかには「二人の人物の邂逅」という大筋のもがあり、「鬼」はこれが主なるプロットです。
どちらも物語――つまり漫画限らず小説や映画など――では、物語の基礎中の基礎のプロットです。漫画の新人賞応募作品では圧倒的に前者が多いように見られます(そう考えた理由は後程)これは長くなるのでまた次回。
さて主人公・子豆は転校生を守ろうと戦い、またポンポコと会話しようとしますが、それは理解の一つも交わせないまま終わってしまいます。一方また話が進むにつれて母親の、子豆と妹への虐待はさらに酷いものになります。
ここで我々読者は主人公に感情移入せざるを得ません。「けなげだ」「可哀想な少女だ」と。どうしても主人公には救われてほしいと、漫画のページを繰りながら願うわけです。
しかし実際はそれが覆されます。
話は最終局面へと移ります。ページ数でいうと31P(PC版だと15P)、ついに子豆はポンポコと一緒に教室を逃げ出してしまいます。
そこで子豆は重要なセリフをポンポコに伝えます。これはとても重要な部分なシーンで子豆の心情と、何故こんな事までしてポンポコを助けてきたのか、という行動目的を表しています。以下セリフのみ抜粋。
「私のお母さんね、すぐ叩いたり蹴ったりするんだ。私だけじゃなくて、妹を叩く事もあるよ」
「ポンポコが転校してきたとき、ちょっとだけ、妹に似ていると思ったんだ」
「ポンポコの不機嫌そうな顔が、泣いてるの我慢しているみたいに見えたよ」
「叩かれたり暴言言われたりするのって、すごく辛いんだ」
「だからね、ぽんぽこを守りたかったよ」
子豆はポンポコを妹、さらには自分自身の姿と重ね合わせていたようです。そして「暴力を奮われることは(自分も)とても辛いから」ポンポコを守りたかった、と伝えます。
それに対しポンポコも自分の境遇を話し泣きます。二人は和解し、ポンポコの「明日うちにおいでよ」という遊びの約束をし、二人は無事帰っていきました。
実際は凄惨なラストに結びついてしまうのですが、そもそもこの会話は本当に「友達の契り」の会話だったか、そこから考えてみます。
■話の噛み合わなさ、ポンポコの独善性
実は31P(PC版だと15P)から4P分の子豆とポンポコの会話、よく読むと話が嚙み合っていない事に気付きます。
ポンポコ「ひどいこと言ったりしてごめんね」
子豆「ううん、全然気にしてないよ」
ポンポコ「本当に?」
子豆「うん、友達だよ」
ポンポコ「……」
ポンポコ「なんでそんなに優しくできるん。私は全然優しくないのに」
子豆「優しいよ」
子豆「優しいよ」
ポンポコ「(泣き顔から笑って)ははは」
まず子豆がポンポコに対し「友達だよ」と言うのに対し、ポンポコは「友達」である事を認めていません。
代わりに返す言葉は「何故そんなに優しくできるの?」という疑問です。
それに「私は優しくない人間ではない」との言葉に子豆は「優しいよ」と言いますが、実際これは何ら根拠のあるものではなく、子豆がただそう思っている(思いたがっている)だけです。実際ポンポコは自分が優しいと言われた事に対し、それを肯定も否定もしていません。ただ笑うだけです。「ありがとう」という意味にもとれますが、そうでない可能性の方が高いです。
最終的に、翌日子豆はポンポコに水を掛けられ、嗤われる事となります。ポンポコは嬉しそうにこう言います。
「(前略)ねぇ、私が叩かれたり暴言言われたりするのイヤなんでしょ? 私もね、私が叩かれたり暴言言われたりするのイヤなんだ。」
ここでポンポコは優しいわけではなく、また独善的な人間である事が分かります。おそらく彼女(彼)にとっては、友達など誰でもよかったのでしょう。数多いる同級生の中で、子豆とそれ以外を選ぶとするのなら、「ポンポコという人間」は後者を選ぶわけです。
対して子豆はポンポコの事を友達と思っていたので、痛烈なすれ違いにより、残虐的なラストとなってしまいました。子豆の呆然として絶望する顔と背中は読んでいるこちら側さえ、やりようのない悲しみに襲われます。
しかし本当に子豆はただただ悲劇のヒロインなのでしょうか?
■ポンポコと子豆の共通する「独善性」
子豆はポンポコに関わるまでは、友達もいるしクラスのポジションも確立している「普通の小学生」でした(もちろん、小学校の中だけであり彼女は家庭内暴力を受けています)
そんな彼女が何故ポンポコに執拗に付きまとったのは、彼女が言ったとおり「ポンポコを守りたいから」です。しかし、この感情はある意味では独善的であると言えます。
「ち、違うよ。ポンポコと、ポンポコと友達になりたいんだよ。」
「えっと……違う……その……」
実際22P(11P)では「鬱陶しい」と言われて子豆は、「友達になりたい」と言ったものの、「えっと……違う……その……」と言い淀んでしまいます。はっきりと伝える事が出来なかったのは、友達になるという事ではなく、本来の目的を伝えようとしているからではないでしょうか(結局それはうまく言葉になりませんでしたが)。
おそらく子豆は、ポンポコを守り特別な友達になろうとしたのでしょう。
「特別な」というのは漫画冒頭に居た、普通の友達とは違うという事です。
「特別な友達」がどういったものかまでは漫画内の描写では分かりかねますが、おそらくは「虐待によるストレスを打ち明けたい」「虐待されている自分を理解してほしい」そしてもっと踏み込めば「守ったのだからそちらも助けてほしい」という気持ちまであったはずです、子豆の心に寄り添って想像すれば。
ここでもう一回彼女らの会話をみてみましょう。
ポンポコ「ひどいこと言ったりしてごめんね」
子豆「ううん、全然気にしてないよ」
ポンポコ「本当に?」
子豆「うん、友達だよ」
ポンポコ「……」
ポンポコ「なんでそんなに優しくできるん。私は全然優しくないのに」
子豆「優しいよ」
子豆「優しいよ」
ポンポコ「(泣き顔から笑って)ははは」
子豆もまた「守りたい」という独善的な気持ちで動いていた事を加味すると、この会話も少し違って見えます。結局のところ彼女らが繰り交わしていたのは会話でもなく、ただの独善的な言葉のドッチボールであったのです。
そうして、物語は最悪の形で終わってしまいます。皮肉にも、子豆とポンポコは独善性という点で共通しています(もちろん子豆自体は独善的な性格ではないのですが)。
■まとめ
以下にゃるら氏のツイート
物語性に慣れすぎると、どうしても内容に勧善懲悪や教訓が必ずあると認識しがちで、露悪的な話にすらも後味悪くともオチがあるはずと固定観念がある訳ですが、この作品はそれを逆手にとり全てを急に切ることで短編という媒体を活かしきっているのが、特に漫画としての才能を感じる
— にゃるら (@nyalra) June 13, 2019
ばつん、と生徒が笑っているシーンで本作は終わってしまうが、これにより作品全体のテーマ性を「締め」切っていると私も感じました。無駄に小豆を泣かせたりいじめが続けられる事もなく、ぷつりと笑い声だけで終わる、そういった点でセンスというか、物語の技術を感じさせられました。
ポンポコは鬼ではないと思います。ただこういった悲劇を引き起こした報われない悪意無き悪意が「鬼」なのだと私は考えました。
もし、子豆が虐待児童で暗く歪んだ少女だったら、話はただの陰鬱で「露悪的」な作品にとどまっていたでしょう。ですが子豆(陽)と世界(陰)がぶつかりあい、そして陽が陰へと飲み込まれるカタルシスが、この漫画の面白さ――というよりも陰鬱さ、悪意を表現しているのだと感じました。
■他の作品も読んでみる/審査員(漫画家)は技術的な視点で見ている
さて、ほかにもたくさんの受賞作があったので読んでみました。特に面白いなと思ったのは以下の二作品
「悪者のすべて」岩田ユキ
顔にコンプレックスを持つ主人公、悪の組織に入り。皆と一緒である事で安心できる。今の個人主義とは真反対の世界観で変わっていく主人公が心地よかったです。歪んだものに対する愛、同じ存在になって力を合わせる友情。こういうのを「悪の組織」というおやくそくな概念でデフォルメしているのがまたものすごいアイデアだと思いました。最後は賛否両論という人もいましたが、外を出てしまい相方には美しい顔と仲間がいる事が分かり、離反する主人公には同情せざるを得ません。面白かった。
「据え膳食わぬは男の意地」旗町マコ
shincomi.shogakukan.co.jp 人魚の肉を捌いて勝負するという突拍子のないアイデアがそもそもすごいです。話の筋書きがちょっと怪しいですが、人魚が自分の肉を誇りにし、敵に鯛を(しかも鯛を!)渡して勝負するというのは面白い顛末でした。
漫画家さんたちの小批評を読んでいて思ったのは、新人賞に応募された漫画は物語よりも技術を重要視されているんだなという事です。
どんな魅力的なキャラクターか、奇抜なストーリーかというよりは、物語は筋道たったものでもよいから、その物語をどういった技術で、映えさせ、分かりやすくし、魅力的にできているか、という事を評価の基準にしているようでした。
私はたまに漫画雑誌を買って掲載されてる新人賞の人のを読む事もあるんですが、やはり今回の小学館コミック大賞と同じで、ストーリは単調であるものがほとんどでした。そういう点が気になるのは多分私が話を作るひとなのせいでしょうが、おそらくプロの漫画家に求められるのはやはり技術なのでしょう。
雑誌を発行、あるいはweb掲載する以上、載せる漫画は読者に求められるものでなければいけません。さらに、掲載雑誌や時代感など様々な要因で、読者に求められるものは変わってきます。
ですからプロの漫画家に求められるのはストーリ構築よりも、どんな状況下でどんな物語でも、キャラクターを魅力的に描けたりしっかりとした演出ができたりする能力なのだと思います。
ある意味ひたすらに商業的なわけですね。なるほどプロの漫画家になるのは大変だ……(六年前に諦めといて良かった……)
おわり