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小学館第84回新人コミック大賞青年部門佳作「鬼」(浄土るる)の感想および考察

■たまたま漫画の受賞作を読んだら面白かった。
 今回はそういう話です。

 

 ある日の事インターネットをしていたらにゃるら氏のツイートを見て、面白そうだったので読んでみる事にしました。

 

小学館第84回新人コミック大賞青年部門佳作 「鬼」浄土るる

shincomi.shogakukan.co.jp

 

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 漫画の大賞というのは存在自体はなんとなく(まああるんだろうな程度)知っていたのですが、ネット上で公式に公開されているんですね、初めて知りました。雑誌掲載が多いイメージでしたので。特に小説関連は。

 

(あとで気付きましたが雑誌掲載メインでインターネット公開は二番目かもですね。本題の漫画のページに本誌上でのページ数が打ち込まれていたので)

 

■感想

 〇満ち満ちる悪意

 最初に感じたのは、漫画全てに満ち満ちる悪意でした。

 

 主人公・江田子豆は明るく陽気な小学生ですが、家庭内では母親から暴力を受けています。彼女には幼稚園児の妹もいますが、母親は嫌な事があると二人に暴力を奮い、子豆は為すすべき事もなくそれを受け入れています。

 


 子豆の世界は悪意ばかりです。母親の虐待・ポンポコ(転校生)へのいじめ・どこかぶっ壊れてる担任教師……と皆歪んでいるように見えます。対し子豆だけは歪んでいません。少なくともそう描写されています

(あくまで物語としてのいじめという意味。もちろん小学校でのいじめはどこにでもある普通の現象)

 

 

 悪意はセリフや単語単位でも散りばめられています。

・クソガキ小学校
・「はーいじゃあ席は不登校石田くんのとこ使っちゃおうか」
・授業中の黒板は落書きばかり
・死ね小学校

 ですが、悪意ばかりだからこそ、子豆の異様な明るさ、変なポーズ(自分はこういったシーンがとても好き)陽気さがとても目立ちます。こういった露悪性と、それに相対する主人公の明るさによって、どちらもキャラ(存在)が立っているのです。
 

 

 ラストではその主人公と悪意が融和する事によってお話をしっかり「締め」られる事ができたのでしょう。また悪意のおかげでお話の中に一貫性が出ているのだと感心しました。

 ラストの終わり方については後述。

 

 

〇物語について

 「鬼」は、一般的な漫画新人賞と比較して、物語性が少々他と異なります。

 

 物語のプロットとしては大別して「主人公には何らかしらの課題があり、その課題達成をし、成長する」というものがあります。また、ほかには「二人の人物の邂逅」という大筋のもがあり、「鬼」はこれが主なるプロットです。


 どちらも物語――つまり漫画限らず小説や映画など――では、物語の基礎中の基礎のプロットです。漫画の新人賞応募作品では圧倒的に前者が多いように見られます(そう考えた理由は後程)これは長くなるのでまた次回。
 
 
 さて主人公・子豆は転校生を守ろうと戦い、またポンポコと会話しようとしますが、それは理解の一つも交わせないまま終わってしまいます。一方また話が進むにつれて母親の、子豆と妹への虐待はさらに酷いものになります。


 ここで我々読者は主人公に感情移入せざるを得ません。「けなげだ」「可哀想な少女だ」と。どうしても主人公には救われてほしいと、漫画のページを繰りながら願うわけです。

 しかし実際はそれが覆されます。
 
 
 話は最終局面へと移ります。ページ数でいうと31P(PC版だと15P)、ついに子豆はポンポコと一緒に教室を逃げ出してしまいます。

 

 そこで子豆は重要なセリフをポンポコに伝えます。これはとても重要な部分なシーンで子豆の心情と、何故こんな事までしてポンポコを助けてきたのか、という行動目的を表しています。以下セリフのみ抜粋。

 

「私のお母さんね、すぐ叩いたり蹴ったりするんだ。私だけじゃなくて、妹を叩く事もあるよ」
「ポンポコが転校してきたとき、ちょっとだけ、妹に似ていると思ったんだ」
「ポンポコの不機嫌そうな顔が、泣いてるの我慢しているみたいに見えたよ」
「叩かれたり暴言言われたりするのって、すごく辛いんだ」
「だからね、ぽんぽこを守りたかったよ」

 

 子豆はポンポコを妹、さらには自分自身の姿と重ね合わせていたようです。そして「暴力を奮われることは(自分も)とても辛いから」ポンポコを守りたかった、と伝えます。

 

 それに対しポンポコも自分の境遇を話し泣きます。二人は和解し、ポンポコの「明日うちにおいでよ」という遊びの約束をし、二人は無事帰っていきました。

 

 実際は凄惨なラストに結びついてしまうのですが、そもそもこの会話は本当に「友達の契り」の会話だったか、そこから考えてみます。

 

 

■話の噛み合わなさ、ポンポコの独善性

 

 実は31P(PC版だと15P)から4P分の子豆とポンポコの会話、よく読むと話が嚙み合っていない事に気付きます。

 

 ポンポコ「ひどいこと言ったりしてごめんね」
子豆「ううん、全然気にしてないよ」
ポンポコ「本当に?」
子豆「うん、友達だよ」
ポンポコ「……」
ポンポコ「なんでそんなに優しくできるん。私は全然優しくないのに」
子豆「優しいよ」
子豆「優しいよ」
ポンポコ「(泣き顔から笑って)ははは」

 

 まず子豆がポンポコに対し「友達だよ」と言うのに対し、ポンポコは「友達」である事を認めていません。

 

 代わりに返す言葉は「何故そんなに優しくできるの?」という疑問です。

 

 それに「私は優しくない人間ではない」との言葉に子豆は「優しいよ」と言いますが、実際これは何ら根拠のあるものではなく、子豆がただそう思っている(思いたがっている)だけです。実際ポンポコは自分が優しいと言われた事に対し、それを肯定も否定もしていませんただ笑うだけです。「ありがとう」という意味にもとれますが、そうでない可能性の方が高いです。

 

 最終的に、翌日子豆はポンポコに水を掛けられ、嗤われる事となります。ポンポコは嬉しそうにこう言います。

 

「(前略)ねぇ、私が叩かれたり暴言言われたりするのイヤなんでしょ? 私もね、私が叩かれたり暴言言われたりするのイヤなんだ。」

 

 ここでポンポコは優しいわけではなく、また独善的な人間である事が分かります。おそらく彼女(彼)にとっては、友達など誰でもよかったのでしょう。数多いる同級生の中で、子豆とそれ以外を選ぶとするのなら、「ポンポコという人間」は後者を選ぶわけです。

 

 対して子豆はポンポコの事を友達と思っていたので、痛烈なすれ違いにより、残虐的なラストとなってしまいました。子豆の呆然として絶望する顔と背中は読んでいるこちら側さえ、やりようのない悲しみに襲われます。

 

 しかし本当に子豆はただただ悲劇のヒロインなのでしょうか?

 

 

■ポンポコと子豆の共通する「独善性」

 

 子豆はポンポコに関わるまでは、友達もいるしクラスのポジションも確立している「普通の小学生」でした(もちろん、小学校の中だけであり彼女は家庭内暴力を受けています)

 

 そんな彼女が何故ポンポコに執拗に付きまとったのは、彼女が言ったとおり「ポンポコを守りたいから」です。しかし、この感情はある意味では独善的であると言えます。

 

「ち、違うよ。ポンポコと、ポンポコと友達になりたいんだよ。」

「えっと……違う……その……」

 

 実際22P(11P)では「鬱陶しい」と言われて子豆は、「友達になりたい」と言ったものの、「えっと……違う……その……」と言い淀んでしまいます。はっきりと伝える事が出来なかったのは、友達になるという事ではなく、本来の目的を伝えようとしているからではないでしょうか(結局それはうまく言葉になりませんでしたが)。

 

 おそらく子豆は、ポンポコを守り特別な友達になろうとしたのでしょう。

 

「特別な」というのは漫画冒頭に居た、普通の友達とは違うという事です。


「特別な友達」がどういったものかまでは漫画内の描写では分かりかねますが、おそらくは「虐待によるストレスを打ち明けたい」「虐待されている自分を理解してほしい」そしてもっと踏み込めば「守ったのだからそちらも助けてほしい」という気持ちまであったはずです、子豆の心に寄り添って想像すれば。


 ここでもう一回彼女らの会話をみてみましょう。

 

ポンポコ「ひどいこと言ったりしてごめんね」
子豆「ううん、全然気にしてないよ」
ポンポコ「本当に?」
子豆「うん、友達だよ」
ポンポコ「……」
ポンポコ「なんでそんなに優しくできるん。私は全然優しくないのに」
子豆「優しいよ」
子豆「優しいよ」
ポンポコ「(泣き顔から笑って)ははは」

 

 子豆もまた「守りたい」という独善的な気持ちで動いていた事を加味すると、この会話も少し違って見えます。結局のところ彼女らが繰り交わしていたのは会話でもなく、ただの独善的な言葉のドッチボールであったのです。

 

 そうして、物語は最悪の形で終わってしまいます。皮肉にも、子豆とポンポコは独善性という点で共通しています(もちろん子豆自体は独善的な性格ではないのですが)。

 

 

■まとめ

以下にゃるら氏のツイート

 

 ばつん、と生徒が笑っているシーンで本作は終わってしまうが、これにより作品全体のテーマ性を「締め」切っていると私も感じました。無駄に小豆を泣かせたりいじめが続けられる事もなく、ぷつりと笑い声だけで終わる、そういった点でセンスというか、物語の技術を感じさせられました。

 

 ポンポコは鬼ではないと思います。ただこういった悲劇を引き起こした報われない悪意無き悪意が「鬼」なのだと私は考えました。

 

 もし、子豆が虐待児童で暗く歪んだ少女だったら、話はただの陰鬱で「露悪的」な作品にとどまっていたでしょう。ですが子豆(陽)と世界(陰)がぶつかりあい、そして陽が陰へと飲み込まれるカタルシスが、この漫画の面白さ――というよりも陰鬱さ、悪意を表現しているのだと感じました。

 

 


■他の作品も読んでみる/審査員(漫画家)は技術的な視点で見ている

 

 さて、ほかにもたくさんの受賞作があったので読んでみました。特に面白いなと思ったのは以下の二作品

 

「悪者のすべて」岩田ユキ

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 顔にコンプレックスを持つ主人公、悪の組織に入り。皆と一緒である事で安心できる。今の個人主義とは真反対の世界観で変わっていく主人公が心地よかったです。歪んだものに対する愛、同じ存在になって力を合わせる友情。こういうのを「悪の組織」というおやくそくな概念でデフォルメしているのがまたものすごいアイデアだと思いました。最後は賛否両論という人もいましたが、外を出てしまい相方には美しい顔と仲間がいる事が分かり、離反する主人公には同情せざるを得ません。面白かった。

 

「据え膳食わぬは男の意地」旗町マコ

shincomi.shogakukan.co.jp 人魚の肉を捌いて勝負するという突拍子のないアイデアがそもそもすごいです。話の筋書きがちょっと怪しいですが、人魚が自分の肉を誇りにし、敵に鯛を(しかも鯛を!)渡して勝負するというのは面白い顛末でした。

 


 漫画家さんたちの小批評を読んでいて思ったのは、新人賞に応募された漫画は物語よりも技術を重要視されているんだなという事です。

 

 どんな魅力的なキャラクターか、奇抜なストーリーかというよりは、物語は筋道たったものでもよいから、その物語をどういった技術で、映えさせ、分かりやすくし、魅力的にできているか、という事を評価の基準にしているようでした。

 

 私はたまに漫画雑誌を買って掲載されてる新人賞の人のを読む事もあるんですが、やはり今回の小学館コミック大賞と同じで、ストーリは単調であるものがほとんどでした。そういう点が気になるのは多分私が話を作るひとなのせいでしょうが、おそらくプロの漫画家に求められるのはやはり技術なのでしょう。

 

 雑誌を発行、あるいはweb掲載する以上、載せる漫画は読者に求められるものでなければいけません。さらに、掲載雑誌や時代感など様々な要因で、読者に求められるものは変わってきます。


 
 ですからプロの漫画家に求められるのはストーリ構築よりも、どんな状況下でどんな物語でも、キャラクターを魅力的に描けたりしっかりとした演出ができたりする能力なのだと思います。
 


 ある意味ひたすらに商業的なわけですね。なるほどプロの漫画家になるのは大変だ……(六年前に諦めといて良かった……)
 


 おわり

 

「死ぬなら一人で死ぬ」しかないのか。

 

 あんまりにも人が死ぬので、こんなに他殺事件が起こるのは異常だ、と思いそうにはなるが、実のところ人はいつも死んでいる。連日のニュースをうけてもしあなたが「こんな凄惨な事件には何か対策を(政府が、あるいは誰かが)講じなければならない」と思っているのならばそれは間違いだから改めたほうがいい。

 

 
 あなたが食事を取り眠っているその間にも、どこかで誰かが自殺について真剣に考えている。そんな人達を救おうとしたとき、きっとあなたはどこかで区切りを付けなければならない。何故なら全員を救おうとしたならば、今度はあなたが壊れてしまうからだ。

 

 
 私は人生で二回、自殺する事について本気で考えた事がある。

 

 
 初めては中学三年生の頃だ。

 両親が離婚し、生活の形態が少しだけ変わった。様々な事情から、自分は死んでしまったほうがいい、生活の中の苦しみがあるくらいなら今命を絶ったほうが楽だ、と思っていた。

 

 
 死について考えるたび、当時の私は恐怖で胸がいっぱいになった。死んだ後は文字通りの無が待っている。無だ。自分自身が無くなってしまい、そしてもう何も感じる事、考える事が出来なくなってしまう。自分が死ぬ事自体にも怯えるのだ。
 

 

 風呂に入ると、そういう事が激しく頭の中に浮かんでしまうので、そのうち私は風呂に入れなくなった。本やスマートフォンを持ちこむ事で考える事をやめる事ができた。今でも、湯船につかるには何かを持ち込まないと耐えられない。

 

 
 二回目は一年前だ。一年前の六月あたりから、研究室と就活の作業の間で、様々な苦痛に耐えきれなくなり、これはもう死んでしまったほうが良いのでは? とずっと考えてしまうようになった。

 

 
 いわゆる希死念慮である。流石に精神科に言った。得たものはあったが、それよりも失ったものがはるかに多かった。抗うつ薬を飲まなくなった時に現れる離脱症状がその一つだ。
 希死念慮については今でも続いている。自殺について考えそのたびに右往左往するというよりは、じっと死ぬ事について度々考えるようになった。死にたい、と思う事は少なくなっているのだが、困った事に生きようという気力も中々湧かなくなってしまった。
 


 日々失われていくものばかりだが、分かった事も少しある。
 自分を助けてくれるのは、自分しかいないという事だ。

 

 
 もし例えばあなたの身内に引きこもりがいるとして、あなたは何をすべきだろう? 専門家に相談するのがベストだ。しかしあなた自身がすべき事は? 彼あるいは彼女と話し合った方がいいだろうか? それとも好きなようにさせておくか、あるいは部屋から叩き出すか? 

 

 
 だがそれからはその引きこもりの人自身が、何をするかを決める。その人が何をするかの最終決定権は本人に帰結する。その人が外に出て散歩するかしないかは、結局のところその人自身の決意によるのだ。

 

 
 あなただって、その人に付きっ切りでいるわけにはいかないだろう。何故ならあなたも自分の人生を生きていかなければいけないのだから。

 

 
 身体の具合が悪いという人に対し、病院に行ったほうがいいと言う事はあっても、引きずってまで病院に連れていく人はおそらく少ないはずだ。そんな事ができるほど人は暇ではない。自分の人生に忙しくて他人のそれにまで干渉できない、あるいは干渉してはならないと思うからだ。

 

 
 ある人が自殺して、知り合いだったあなたは何かをしてやれなかったのかと後悔する。だが結局のところ、過去に戻ったとしてもあなたはその人に何も出来なかっただろう。声をかける、親身に接する、だけじゃその人の本当の問題は解決しない。悩みを打ち明けてもらおうとしたところで、その人はどれだけあなたを信頼しているのだろう。そして実のところ、あなたにどれほど頼るのかはその人次第なのである。これは死についても言える。医者でさえ、死の淵に立つ人を治療するのは至難の技だ。しかも最終的には患者の身体能力にかけるしかない。
 
 
 ひとは人を救う事は出来ない。ただ人が救われる手助けをする事しか、できない。

 

 
 みんな自分の事で精一杯なのである。

 

 
 引きこもりの息子を親が殺害した事件、息子を責める人、親を責める人、引きこもりの支援をする人、引きこもりの親を支援するべきだという人、様々いるが、私個人の意見としては、誰かを責める権利は我々には無い。

 

 
 専門的な仕事に従事している人以外では、何かをすべきだ、何かをすべきだったと言う権利すらもないと私は思う。何故ならあなた方は誰も救えないからだ。いったい誰が、他人の人生を定める事が出来るだろうか。それは不可能とまでは言わないが、とてつもなく難しい事であると思う。

 

 
 自殺したい人がいるなら自殺すればいいと思う。

 

 
 ただし、仮に自殺を考える人に言える事があるとすれば、あなたの人生を決められるのはあなただけだ。あなたが死ぬか生きるのかを決められるのはあなただけしかいない、そして生きるという項目の一つには助けを求める、という方法もあるという事だ。そうすればもしかしたら誰かがあなたが生きる手助けをしてくれるかもしれない。おそらくは。
 

 


 生きるか死ぬかを決めるのは結局のところ、たった一人あなただけの自由意思に委ねられる、それがどれだけ歪み、視野狭窄となっていたとしても。

 

 

時々、物事をうまく考えられない時がある。(近況報告20190616)

 

時々、物事をうまく考えられない時がある。そういう時、私は文章に置き換えようとして、その問題を何とか換言しようとする。書く前の状態は混乱の渦にあってとても苦しいし、書き終わった後も何かが解決した事はない。でも、それ以外に何か出来る事も無い。


近況報告。5月11日に中野区のマンションに引っ越した。様々な費用が込みで家賃が6万円のワンルーム、部屋近くの階段を上がる音が耳に障って、ごみ捨てがひどく面倒な事以外は、まあ及第点の家だといえる。


転居以前からもそうだったが、今日まで私の周りで、様々な物事が嵐のように巡りまわって、かき乱し、そしてどこかへと去っていった。今ここにあるのはただただ漠然とした、巨大という事のほかには分からない不安だけだ。それ以外はみんな嵐がぐちゃぐちゃに壊してしまった。残骸が、周りに散らばっていると思う、そして私はそれをうまく片付ける事が出来ない。


引越せば何かが解決すると思った。家族の問題、自分の問題、あらゆる問題。客観的に見れば、そういった事はここに越す事でゆっくりではあるが、解決の方向に向かっている。確かに父親から物理的に離れる事は出来たし、この街もある程度気に入っている。綺麗すぎず、汚過ぎない。静かすぎず、うるさ過ぎない。


引越してからストレスによる発作が和らいだ。その発作は私の場合、ひどく脳がしびれ、身体中がひきつり、目眩と耳鳴りがする。引越す前は抗うつ薬離脱症状でそれらの発作がゲリラ豪雨のように私を襲っていたが、今は和らいだ。しかしゼロではない。それは確実に私の隣にいる。これを書いている今も、私はその前兆に怯え、苦しんでいる。


私の周りからは、確かに悪い物事というのが減っていると思う。だが良い物事については増えていない。人生においてどれが悪い事でどれが良い事だなんて私にはまだ分からないけれど。


気分が悪い、酒を買いに行く。ここのところ真夜中はいつもそうだ。うまく眠れない。夕飯後はすぐに眠くなるし、三時間もすると目覚めてしまう。漠然とした不安が気まぐれのように来て、私を病気にする。


酒を買ってきた。コンビニの裏手には私と同じくらいの男性二人組が、座り込んで話をしていた。楽しそうであったが、何が楽しいのだろうか。家に帰って話したほうが寒くないし疲れないと思う。


身体の調子が非常に悪い。あまり良い食事を取っていなくてビタミン剤も飲んでいないからか、それとも肉体的疲労のせいか、あるいは精神的ストレスのせいか、分別つかない。ただ異様な気だるさの胃のあたりの痛みだけははっきりとしている。そして疲労感。


早く仕事を探さなければいけないという焦燥感がある。具体的にはアルバイトだが、これは多分今の自分には良いものをもたらすと思う。人と関わらないと、少なくとも私はどんどんと腐っていく。私はそういうタイプの人間なのだ。ただ仕事を探す手間の事を考えると気分は暗くなる。私に一体何が出来るのだというのか、少なくとも立ち仕事は出来ない。身体が弱いのだ。二年前にとある仕事をした事があるが、その時は八時間以上は立ち歩いていた。脚の具合がおかしくなってうまく歩けなくなった。今ではその半分ももたない気がする。


自分に何が出来るのか分からない。文章すらも、私の傍から離れていく気がする。それを実感する度、私は死ぬことについて考える。努力して何かをこなそうという気分になれないのだ。おそらくは、一年近く前に亡くなった(そしてTwitterの更新が無くなっていて、事実が最近明るみになった)とある女性の件が関連している気がする。彼女の作品は自分の精神に深く結びついていて、いた。

 

一体俺は何をやっているんだ。

一体俺は何をやってきたんだ。

 

天井を見上げながらひたすらそんな事を考えずにはいられない。

 

どこまでいけるか分からないけど足が止まるまで歩こうとする事に、あとどれくらいで意味を見失うのだろうか。

 

今のところ人生はほとんど楽しくない。

 

 

 

泥色の月 青い紅葉編 #1

 僕の恋人が自殺した。そんな人間はいない。架空の人間が死んだのだ。そう思い月山馨瑞は東インドに向かった。社会科で聞いた東インド会社ってあったじゃないですか……そこに向かう為です。インドにはたくさんのものがあった。川、川、死体、驚くべきことに人間の皮膚を着た異形の者どもが闊歩していたのだ。東にあるインドの会社だから東インド会社。死んだ人間が集まるというのなら架空の死人も集まるのだろうか。死体があるところ生き人もあり。生きた人間はタコのスーツに身を包んでいた。「すみませんすみません。僕が好きだった人達の死体を探しているのですが」「そういった質問は答えかねます」彼(彼?)はそう言うと近くにいたターバン巻きの男を捕まえ、骨ばった背中に手を突っ込んだ。するする、するすると下へおろすと、不思議とそこから裂け目が出来、人皮を脱ぐようにそれは現れた。「それは……」「はい、ぎんなんです」見た目よりも臭いが気になった。臭かった。まさしくぎんなんといったぎんなんは、ごろんと横になるとガンジス川をどんぶらこどんぶらこと流れていった。「行きましょうか」タコ人間が行った「どこへ?」「アライグマのところへ」アライグマは害獣である。月山馨瑞は彼が後ろを向いたところで手元にあったぎんなんで頭をがつんと殴った。タコ人間は死に、川の向こうへと流れていった。ああ、そういえば私の母校はイチョウの樹が並び、秋はぎんなんの臭いでクソが垂れ流れたかのような臭いがしていた、とふと思い出した。都立桜修館中等教育学校の事である。

 

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<したいがしたくて十の位をずっと数えてるの。助けて>

【雑記】数字が無くちゃ誰もみてくれない【ワナビ達に捧ぐ】

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だれもたすけてくれない。じぶんの人生をきめられるのは自分だけなのだ。

 


■人を評価するという事

 人が他人を評価するとき、一番に頼りなるものは数字である。

 

 目に見えてかつ基準が明確なものだからだ。

 

 就職活動で考えれば分かりやすいだろう。最も優秀な(最も会社に合った)人を採用するにはどうすればいいか? 100人の中から1人を選ぶにはどんな方法が効率的だろうか? 

 

 そのふるい分けに用いられるのがSPIなどの学科試験である。

 

 SPI試験の結果は必ず数字として出る。SPIの内容がどれほどまでにくだらなくて、実際の職務内容からかけ離れていたとしても、それはさほどどうでもよい。職務内容に合うかどうかはふるいに残った数人に、最終的にテストできればよいからだ。

 

 数字は大切だ。クリエイティブ職の面接にポートフォリオを持っていくとき、ポートフォリオのクオリティも重要ではあるが、最も重要なのはそのポートフォリオがどんな「数字」を生み出したか、である。

 

 PV数は? 文字数は? いいねの数は? 再生数は? クオリティはさほど問題ではない。Web小説、漫画、自作動画、ブログ、イラスト、どんなに良いものを作れても、そこに付随する数字が無くては誰も評価をしてくれない。有名なもの、つまり実績のあるものでなければ、我々は手に触れようともしない。

 

 インターネットのコンテンツだけではない、営業職では売り上げ数、研究者ではどれほどのIF(インパクトファクター)のある雑誌に論文が掲載できたか、世界中のほぼ全ての評価に、数字が関わってくる。それは、繰り返しになるが、数字というものが我々の社会に密接した概念であり、指標となり得るものだからだ。

 

数字が無くちゃ誰もみてくれないのだ。

 


■やりたい事とできる事
 
 ……と数字数字ばかり言っていると、段々と心を病んでいくに違いないだろう。

 

 僕自身、そんな事ばかり考えていると何だかつまらない人間になりそうで怖い。

 

 数字数字ばかり言わず、友達と遊んだり、何にも考えず散歩をしたりという事もすべきだ。大昔の偉い哲学者が曰く「常に中庸であるのがよい」と言ったように、一つの考えに偏るのではなく常にバランスを保つのがいいと思う。

 

 考え方が偏りすぎると軍歌を鳴らして黒塗りの車を走らせるようになるかもしれないし、ISISに入隊したりするかもしれないし、それはとてもヤバイ事だ。極度に偏ると戻れなくなるし、それはヤバイ。

 

 

 ところで数日前、某SIer事業・webメディア事業会社へ訪れた際に、お聞きした話の中で興味深いものがあった。

 

 それは就活生に向けた言葉になるのだが、簡潔にまとめると
 
 「やりたい仕事を選び、それを続けるのは偶発的な要因もあって難しいかもしれない」
 
 「だが、できる事というのは自発的に身に着けられる」
 
 「できる事を増やせば選択肢が増えるからやりたい事ができる幅が広がる」

 

 とても論理的で、就活生にとっても大切なお話だったと思う。
 ここで「やりたい/ない」はとりあえず置いといて、「できる/できない」について考えたい。
 

 

 結論から言うと「現実問題、できる事を増やしても選択肢は増えない」に尽きる。

 以下説明をしていこう。
 

 

 例えばの話、金融機関で働きたいが、選択の幅を増やすため、英語スキルを高めて外資系も狙いたい、とする。その人の現在のTOEICは380点。履歴書に載せるとかえって悪印象と呼ばれる域である。


 英語力を上げるため、英会話教室に通いTOEICの授業も受けて勉強をした。海外も行き、ある程度の会話も出来るようになった。さて、就活の時期になったとき、晴れ晴れとした気持ちで外資系の会社に面接にいった。

 

 TOEICの試験は数ヵ月後なので点数は更新されていないが、英語力は確実にあるのできっとアピールポイントにもなるだろう――結果的に、この人は英語力が「あるにはある」と思われたが不採用となった。


 何故か? 人の英語力を計る一番の方法は「数字」だからである。TOEICの点数を明示できない以上英語力は「あるかもしれない」に留まってしまうからだ。


 さらに言えば、試験が間に合ってTOEICの点数が650点に上がったとしよう。この人にとっては必死に上げた英語力の現れであり、彼/彼女はこの点数を誇りにも思っていた。

 

 しかし選択の幅を増やすために選んだ外資系大企業では(新卒採用の場合は実際分からないが)、「650点は中途半端」と思われるだろう。英語スキルは確かにある。だが応募してくる人の中には「TOEIC900点」などざらにいる。

 

 「650の人もいいけど900の人の方がいいからこっちを採用ね」とならざるを得ないだろう。

 


 もちろんTOEIC650点は、普通の会社で履歴書に書けばそこそこのアピールポイントになるだろう。内定取得率だってぐんと上がるはずだ。しかし最初の目的だった「選択の幅を増やすため、英語スキルを高めて外資系も狙いたい」は達成できなかった。
 
 この話の結論は何か? 「できる」とは、社会では0か100でしか評価されないし、「できる」を100にするのには大きなコストと時間がかかる、中途半端では「できる」と(実際できるのに)認めてもらえないという事である。
 
 


ポートフォリオが見てもらえない!

 

 さらに例を出そう。とある大メディア会社のTwitterで、youtube動画編集アルバイトの求人があったとする。

 

 これに応募しようとした月山馨瑞という男は、動画編集スキルを持ち、別名義ではニコニコ動画で50000再生取った動画を製作した事もある。

 

 だがその動画群は常識的に見せられるような内容ではなかったので、新たにポートフォリオ用の動画を製作しyoutubeにアップロードした。

 

 再生数は15程度と無いに等しいが、これは立ち上げたばかりのアカウントでは解決しようもない問題である。それに製作した動画のクオリティさえ見てもらえれば、再生数はさほど問題ない、この男はそう考えていた。


 アルバイトの結果はどうだったか? 結果は面接にすら至らず、メールでの不採用通知だけだった。

 

 原因はすぐ分かった。再生数である。

 

 おそらくは何百人も応募者がいたはずだ(募集条件の時点で学生でも難しい、フリーターのみの案件のはずだったが……)、そういった際に、採用者は全ての動画を精査する事などまるで無理である。

 

だから再生数でまずふるいにかける。ふるいにかかった人数が数十人になった所で、初めて動画を観るわけである。もちろん動画は全部観ない。精々十秒程度だろう(動画媒体の場合は飛ばして全内容を見てもらえるからまだ良心的だ)。


 もちろん僕は採用者が中身を観なかったと愚痴を言いたいわけじゃない。むしろ採用担当者はそうしないとコストが高くなってしまうから、効率的な手段を取ったまでである。
 
 つまり、こういう事である。

 

 ただできる事を増やしても、それが「できる」と認めてもらうためには数字が必要なのだ。

「できる」は、社会では0か100でしか評価されない。そういうシステムなのである。だから、現実問題、できる事を増やしても選択肢は増えない、何故なら「できる事をただ増やす事と、それを認めてもらうレベルまで高める事とは、雲泥の差がある」からである。

 


■我々が小説やブログを書くという事

 

 こういった事は当然、インターネットでのweb小説にも繋がってくる。

 

 すなわち、「貴方が(我々が)、webで作品を読んでもらうにはどうすればいいか?」


 インターネットではコンテンツが供給過剰になっている。漫画や簡単な記事なら数分で読んでもらえるからまだマシだが、web小説なんて地獄の極みだろう。買った本でさえ読む時間が無くて積んでいるのに、どうして面白いかどうかも分からないweb小説を読むのだろう?
 
 作品を公開する人間はあらゆる手段を講ずる。Twitterなどで宣伝する。宣伝にはイラストや画像を載せたり、試読用に小説の一部をアップロードする。専用のアカウントでリアルタイムでTwitterで小説をポストする。更新頻度を上げて何度でもツイートする。宣伝する。ツイートする……。
 


 全部無駄だ。
 


 上記で例を挙げた通り、根本的に認めてもらうには、数字が必要なのである。
 


 結局のところ数字が無くちゃ誰もみてくれないのだ。

 

 誰もお前の、俺の話には興味ない。読むわけがない。

 

数字が無ければ誰も見てくれないのだ。

 

 


■だから書き続ける。

 

 では我々はどうすればいいのだろうか?

 

 小説以外でもいい。我々のコンテンツを他者に見てもらったり、バズったり認めてもらったりするにはどうすればいいのだろうか?
 
 一つ、確実な方法がある。PV数など、他人の力が関わってくる数字ではなく、ただ自分だけの力で伸ばせる数字があるのだ。
 
 何か?
 
 投稿数である。
 
 数字を伸ばすたった一つの方法は「かきつづける」事である。
 

 

 ポスト数だけなら自分の力だけで増やせる。投稿頻度だけなら自分の力だけで縮める事が出来る。1つの名作より100の駄作の方が勝る。読んでもらうには、認めてもらうには、その何十倍ものスケールで書き続けなければいけないのだ。
 


 小手先の技術など役に立たない。
 ただ「大量に書き続けるしかない」のだ。

 

 

 

おわり(この事を真に理解したのが数日前でしたという話でした。遅すぎる!)

 


 あとTwitterのフォロワーとか伸ばすのもいいかもね。買うとか。

【雑記】「何もしない」時間をどう過ごせばいいんだろう。

 

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電車に乗るとみんなスマホをみている。みていない人を探すのが大変なくらいだ。でもスマホが出来る前、みんなは電車で一体何をしていたんだろう? 本や雑誌を読む? それとも何もせず、鉄輪が線路を駆け抜ける音にぼんやりと耳を傾ける?

 
 終わった。

  ようやく終わった……。
 
 ここ二週間心身を擦り減らし、とある仕事に取り掛かっていました。それがようやく終わったのです。まあ卒業論文に関する事なのですが、長くなるのでここでは割愛します。
 
 さて二週間地獄の日々を過ごし、ようやく長い休暇を取る事ができるようになりました。とうとう終わったと安寧の気分で休む事にしました。
 
 ……休む?

 

 ……休むってどうやるの? 

 


■休むってなんだよ(意味不明)

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 取り敢えずハースストーンをやりました。

 

 ずっとゲームし、ゲームに疲れたら惰眠を貪り、だらだら飯をくったら酒をかっくらいながらまたゲームをします。

 

 ニコニコ動画FE封印の剣の動画を見ながら、elonaというゲームをしながら、手元のスマホリネージュ2レボリューションをやる(+酒を飲む)という驚くべきマルチタスクをしていました。
 


 卒論提出……もとい仕事終わりから一日しか経ってないのに「あれ? もう二日経った!?」と体感時間が二倍に感じました。それだけ、忙しい時間の時はずっと何かをしていて、体感速度も速くなっていたのです。

 

 
 次の日(今日)になって、少し気持ちが楽になりました。

 

 朝コーヒーを飲んで、Twitterに載ってた腹筋法をやってトレーニングして、疲れたのでベッドに横になりました。

 

「うーん……なんかスマホTwitterでも見るか」

 
 ……そういう事を思って、自分の思考に、違和感を覚えました。
 

 「何もしない」って、どうやってやるんだろう?

 

 

■「休む」ってどうやればいいのだろうか

 

 実はここまで書いていて既に疲労感を覚えてます。やっぱり自分は疲れてるんだな、と思いました。二週間全然飯食わずに、強いストレス下で家族と喧嘩になったり内定辞退をしたりと苦しい環境にいましたからね。
 
(……内定辞退については話すと長いのでまたの機会にします。一つ言える事は、来年度から僕は無職です。へけっ!)

 

 きっと休むっていうのは「自分の好きな事をする」OR「何もしないをする」という事なんだろうなと思います。(いろんな人から意見を取り入れて、ようやく分かった事でした)。

 

 僕は、実は「休む」という事がとても苦手です。どうやればいいのか分からないから。なんか好きな事をすればいいというけど、ゲームや読書というのも集中力を使うので結構疲労感を覚えます。ストレス解消の手段も酒くらいしか思いつきません。
 

 だから僕が休む方法としては「何もしないをする」方が色々と良かったりする。でもどうやってやるんだろう?

 

 ここで一番上の『電車のお話』が本筋にかかわってきます。
 


■今と昔の電車のじかん

 僕はよく電車に乗るのですが、乗客を観察してみるとスマホを見ている人ばかりな事に気付きます。電車など暇な時間はみんなスマホを見ます。きっとこれを読んでいる人もそうでしょうし、僕も例外ではありません。


 
 車内はとても不可思議な空間です。みんなが皆、小さな画面の液晶に目を凝らし、乗車中の暇な時間を潰している。

 

 本や新聞を読んでいる人も少数派ですが、それ以上に「何もしていない」人はなかなか見つかりません。

 

……


 ところで僕は小学六年生くらいから定期的に電車に乗り始めました。中学受験用に塾に通い始めたからです。

 

 僕が小学六年生というと、大体2008年くらいの頃ですね。スマホはまだ普及していなかったと思います。


 あの時の事を思い出します。あの時山手線に乗っていた頃、周りの乗客は何をしていたんだっけ? あんまり思い出せません。あの頃は確か携帯電話(二つ折りのあれ)があって、でもそればかりを見ている人は、普通ではあったけど多くはなかった(と思う)。
 

 


 もう少し昔に遡ってみましょう。1960年代とか、1970年代とか。

 言わずもがな僕は生まれていないので、想像に身を任せるしかありません。その時は携帯電話すらなくて、駅前の掲示板に待ち合わせの文言をチョークでどうのこうのって時代でした。……その頃、電車に乗ってた人は一体その間何をしていたのでしょう。

 

 通勤ラッシュの時はまあ何にもできないと思いますけど、じゃあ昼間の座席に座れるような間は? まあその頃も雑誌はあったと思いますけど、ウォークマンが発売されてすげえ! とか、たぶんそんな頃。みんなウォークマンとか聞いてたのかな。
 

 


 さらに遡ってみましょう。1900年代です。

 

 森鴎外の短編小説「有楽門」(1907)では市街電車に乗り込む人々が描かれてます。
 (「鴎外全集 第三巻」岩波書店 昭和47年より引用された……ようです。気になる方は取り寄せてはどうでしょうか。僕は大学の文学論でこれを読んだのでそのコピー紙しか持ってません……とても短い、数千字ほどの小説です)。
 
 上小説内では車内を描いた作品では無いので分かりませんが、きっと車内でタバコが吸えた時代だったのでしょう。痰壺だってあったと思います。
 


 でも当然イヤホンで音楽は聞けません。本や雑誌はもちろんありますが、おそらく外に持ち歩いて暇つぶしに読む、というものではなかったでしょう。きっと外の風景を楽しんだり、ただ路面電車の線路と車輪が軋んで揺れる音をただ聞いていたのかもしれません。それは「何もしないをしていた」とも言えるのではないでしょうか。
 
 
■きっと僕たちは「何もしない」に慣れてない。

 

 鴎外にはとんと詳しくないのですが……森鴎外の長編小説に「青年」というのがあります。

 

 僕はそれを勉強の意味も込めてちょっと前に読んでみました。感想とかは取り敢えずおいておいて、内容は、二十代の僕と同じ年代の青年の生活を色鮮やかに描写した教養小説でした。


 小説の中で主人公は、暇つぶしに散歩をしたり、家で読書をしたり、友人と論議を交わしたりしていました。
 
 100年前の青年は、何ら我々と変わりありません。

 

 ただたぶん違う部分の一つには、「何もしない」に比較的慣れていた、というところがあると思います。
 


 うまくは言えませんが、僕も「何もしない」をする事が、以前は多かったです。去年は今より少し暇だったので、たまに大学近くの公園で寝そべって、好きな音楽を聞きながら日向ぼっこをしていました。ゆっくり流れる雲を眺めるのは、結構気持ちのいい事です。

 

 ここ一年間はとても忙しくて、そういう事がほとんど出来ませんでした。もし社会人になっていたら、今からも忙しくなっているので、そういう事は出来ないでしょう(しばらくは)。
 


 ここまで書くのにとんでもなく疲れてしまいました。ここ二週間で相当に心身が付かれている事をひどく思い知らされました。もう少し暖かくなって、花粉が飛ばなくなったら、また好きな音楽を聴きながら青空を眺めたいです。


 これからは「何もしない」に慣れていき、生活に取り入れたいたいものです。

 

 

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おまけ:20160522_050743の大宮のごちゃごちゃしている商店街から見えた朝空

 

 

 

 

【報告】20190216生存報告・創作活動等の進捗状態について

 

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一年ほどがんばりすぎたから、一か月ほどやすんでもおこられないとおもう、よ

 

 

 抑うつが最悪になったので就職まで療養をしています。抑うつというか僕は抑うつ状態の時に泥酔すると物をぶっ壊し、家族に迷惑をかけるので、自主的な判断で療養せざるを得ないと判断しました。

 

 具体的には三月の最終週までかかると考えられていた教習所への通学を中断するが主です。予定だとかなりのハイペースで通わなければならないので、兎にも角にも負担が大きいのです。
 
 それはそれとして小説などのインターネットの活動を再開しようとは思っております。以下各々のプロジェクトについて予定や進捗などを書いていきます。
 
■連載中『ペンは魔法剣よりも強し』の定期投稿再開

 忙しくて出来ていませんでした。理由はブラック研究室などです。
 
 基本的にインディーズなネット小説はそもそもの投稿量が大量にないと誰も読まないと考えています。上小説は50話貯まるまで広告もほとんど貼らず、ただただ独りでカクヨムにアップロードする予定でいました。
 
 今でもその考えはほとんど変わりません。ただ、まあ投稿した直後くらいにはツイートはしようと思います。
 
『ペン魔法剣』は私の鍛錬の一環として更新していく予定です。あんまり『読んでもらおう!』と思って広告をする事はありません。PV数、というのがあるのですが、その数字からそんな事をするのは労力とモチベーションの無駄だと再認識しました。
 
 それから二週間から三週間ほどに間隔を広げますが、これは単にストックが切れたからですね。
 
 そもそもインディーズ小説というのはピンキリです。良い悪いもあれば読者の好みもあります。そういう中で知名度の低い人が書いた小説は絶対に読まれません。
 
 読まれるようになるには大量に投稿して「こんなに投稿しているならまだマシなんだろうな」と思わせるか、あるいは執筆者自身が何らかの強さ・有名度を持っている必要があります。
 
 強さ、つまり経験値を得るには小説以外の方法を取るのが手っ取り早いです。私の場合、『裏稼業』のような動画投稿をこちらでも行って、Twitterの動画で面白い人→その人の小説、というのが手っ取り早いでしょう。
 
 ※『裏稼業』:私が別にあんまり隠してない別アカウントで行っている、ニコ動のとあるジャンルの動画製作。ああいう二次創作だとか音MADとかはオリジナルに比べて一万倍(誇張なし)PV数が稼げます。世知辛い。
 
 要は執筆者の信頼度が読者の「覗いてみようかな」という意欲につながります。つまりもっとなんか、こう何か別の事をすべきなのかもしれません。
 
兎にも角にも『ペン魔法剣』は、私のトレーニングの一環として書かれる事になるでしょう。トレーニングとはつまり、一般的な面白さを作り出す訓練です。頑張りましょう。

 

 こういう話は『金にとても貪欲な人の話』みたいで自分でも気持ち悪いですが、現実はかなり厳しいのでしょうがありません。次行こうぜ。

 

■連作短編小説の予定
 上とは別にして、自分が人生の節目を迎えたという事で、私が影響を受けた様々な作品を、元ネタとした短編小説を連作としてアップロードしようか、などと考えています。ですが上記の方が優先されるので私の体調が元通りにならない限り、この企画は延々と延期される事でしょう。


 
■過去の小説作品のアップロード
 現在私の手元にはインターネットに未公開の小説が二本、か三本あります。これを分割して定期的にアップロード。カクヨムとnoteの同時更新を予定。これはしっかり宣伝をします。とても真面目に宣伝をする事で宣伝の経験を得たいからです。
 それから上の作品も校正を行わなければ、ですね。だるいですがやりましょう。 


SNSを頑張る。
 頑張ります。より多くの人に認知されるためにです。
 ・ツイート量を増やします。
 ・いっぱい人をフォローします。
 ・人と交流をします。
 
 小学生みたいな目標だな。
 
 あと、はてブロやそのほかのSNSの導入を努力します。
 
■ブログ更新の頻度を上げる


 こういう下らないネタなどを増やす事でブログの記事数および投稿頻度をUPさせます。


 以前は「なんかこう……しっかりしたものを書かなきゃいけない」みたいな気持ちでいたので、ブログをやるのにとてもエネルギーがいりました。あとネタがない。
 
 でもこういう音楽がいいみたいな、そういう感じにレベルというか「気持ち」を落として、気軽に文章の練習をする感覚で書こうと思います。
 
 現に今の文章は何にも考えないで書いてます。とても楽です。前回の美少女の内臓はエロいというのも、ちょっとだけしか脳みそを使ってません。あれ書いてたの深夜だしな。
 
 でもその分無駄な文章を削ったりまともなものにしたりと、翌日作業をしてまた疲れてしまったので、これでは本末転倒な気がします。よってこういった進捗報告系の文章は何の校正もせずに行う事にします。書いていると認知される事が、重要。
 
■いろんなものを知る。観ていく。
 これはどんな人生でも大切な事です。自分の興味範囲を広げていきましょう。
 
■トレーニン
 一日家にいると疲れやすくなってきます。一日三十分くらいは筋トレだったり走ったりをしようかなとか、考えています。じゃないと就労後死んでしまう。
 
■外部活動の活発化
 サークル『木曜喫茶』に所属(←一旦逃亡している)ので、積極的に活動に参加していこうと思っています。今もslackで彼らとはやりとりしたりしなかったりします。大抵はゲームの話です。
 後四月から五月にかけて、私が書いた中編小説がとあるところで発表されるので、その時にまた宣伝をしっかり行います。
 
■面白い動画を作る
 これは思い付きです。やったりやらなかったりします。
 
■漫画や絵を描いてアップロードする。
 これは思い付きです。やったりやらなかったりします。

 

以上 20190216生存報告でした。

 

今回の生存報告のフリー画像

 

ぱくたそ様にはいつもお世話になっている(『裏稼業』で)ので、生存報告のブログ記事には画像を使わせていただきます。
www.pakutaso.com