月刊ブラック

備忘録+α twi:@dolly1004

時々、物事をうまく考えられない時がある。(近況報告20190616)

 

時々、物事をうまく考えられない時がある。そういう時、私は文章に置き換えようとして、その問題を何とか換言しようとする。書く前の状態は混乱の渦にあってとても苦しいし、書き終わった後も何かが解決した事はない。でも、それ以外に何か出来る事も無い。


近況報告。5月11日に中野区のマンションに引っ越した。様々な費用が込みで家賃が6万円のワンルーム、部屋近くの階段を上がる音が耳に障って、ごみ捨てがひどく面倒な事以外は、まあ及第点の家だといえる。


転居以前からもそうだったが、今日まで私の周りで、様々な物事が嵐のように巡りまわって、かき乱し、そしてどこかへと去っていった。今ここにあるのはただただ漠然とした、巨大という事のほかには分からない不安だけだ。それ以外はみんな嵐がぐちゃぐちゃに壊してしまった。残骸が、周りに散らばっていると思う、そして私はそれをうまく片付ける事が出来ない。


引越せば何かが解決すると思った。家族の問題、自分の問題、あらゆる問題。客観的に見れば、そういった事はここに越す事でゆっくりではあるが、解決の方向に向かっている。確かに父親から物理的に離れる事は出来たし、この街もある程度気に入っている。綺麗すぎず、汚過ぎない。静かすぎず、うるさ過ぎない。


引越してからストレスによる発作が和らいだ。その発作は私の場合、ひどく脳がしびれ、身体中がひきつり、目眩と耳鳴りがする。引越す前は抗うつ薬離脱症状でそれらの発作がゲリラ豪雨のように私を襲っていたが、今は和らいだ。しかしゼロではない。それは確実に私の隣にいる。これを書いている今も、私はその前兆に怯え、苦しんでいる。


私の周りからは、確かに悪い物事というのが減っていると思う。だが良い物事については増えていない。人生においてどれが悪い事でどれが良い事だなんて私にはまだ分からないけれど。


気分が悪い、酒を買いに行く。ここのところ真夜中はいつもそうだ。うまく眠れない。夕飯後はすぐに眠くなるし、三時間もすると目覚めてしまう。漠然とした不安が気まぐれのように来て、私を病気にする。


酒を買ってきた。コンビニの裏手には私と同じくらいの男性二人組が、座り込んで話をしていた。楽しそうであったが、何が楽しいのだろうか。家に帰って話したほうが寒くないし疲れないと思う。


身体の調子が非常に悪い。あまり良い食事を取っていなくてビタミン剤も飲んでいないからか、それとも肉体的疲労のせいか、あるいは精神的ストレスのせいか、分別つかない。ただ異様な気だるさの胃のあたりの痛みだけははっきりとしている。そして疲労感。


早く仕事を探さなければいけないという焦燥感がある。具体的にはアルバイトだが、これは多分今の自分には良いものをもたらすと思う。人と関わらないと、少なくとも私はどんどんと腐っていく。私はそういうタイプの人間なのだ。ただ仕事を探す手間の事を考えると気分は暗くなる。私に一体何が出来るのだというのか、少なくとも立ち仕事は出来ない。身体が弱いのだ。二年前にとある仕事をした事があるが、その時は八時間以上は立ち歩いていた。脚の具合がおかしくなってうまく歩けなくなった。今ではその半分ももたない気がする。


自分に何が出来るのか分からない。文章すらも、私の傍から離れていく気がする。それを実感する度、私は死ぬことについて考える。努力して何かをこなそうという気分になれないのだ。おそらくは、一年近く前に亡くなった(そしてTwitterの更新が無くなっていて、事実が最近明るみになった)とある女性の件が関連している気がする。彼女の作品は自分の精神に深く結びついていて、いた。

 

一体俺は何をやっているんだ。

一体俺は何をやってきたんだ。

 

天井を見上げながらひたすらそんな事を考えずにはいられない。

 

どこまでいけるか分からないけど足が止まるまで歩こうとする事に、あとどれくらいで意味を見失うのだろうか。

 

今のところ人生はほとんど楽しくない。

 

 

 

泥色の月 青い紅葉編 #1

 僕の恋人が自殺した。そんな人間はいない。架空の人間が死んだのだ。そう思い月山馨瑞は東インドに向かった。社会科で聞いた東インド会社ってあったじゃないですか……そこに向かう為です。インドにはたくさんのものがあった。川、川、死体、驚くべきことに人間の皮膚を着た異形の者どもが闊歩していたのだ。東にあるインドの会社だから東インド会社。死んだ人間が集まるというのなら架空の死人も集まるのだろうか。死体があるところ生き人もあり。生きた人間はタコのスーツに身を包んでいた。「すみませんすみません。僕が好きだった人達の死体を探しているのですが」「そういった質問は答えかねます」彼(彼?)はそう言うと近くにいたターバン巻きの男を捕まえ、骨ばった背中に手を突っ込んだ。するする、するすると下へおろすと、不思議とそこから裂け目が出来、人皮を脱ぐようにそれは現れた。「それは……」「はい、ぎんなんです」見た目よりも臭いが気になった。臭かった。まさしくぎんなんといったぎんなんは、ごろんと横になるとガンジス川をどんぶらこどんぶらこと流れていった。「行きましょうか」タコ人間が行った「どこへ?」「アライグマのところへ」アライグマは害獣である。月山馨瑞は彼が後ろを向いたところで手元にあったぎんなんで頭をがつんと殴った。タコ人間は死に、川の向こうへと流れていった。ああ、そういえば私の母校はイチョウの樹が並び、秋はぎんなんの臭いでクソが垂れ流れたかのような臭いがしていた、とふと思い出した。都立桜修館中等教育学校の事である。

 

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<したいがしたくて十の位をずっと数えてるの。助けて>

【雑記】数字が無くちゃ誰もみてくれない【ワナビ達に捧ぐ】

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だれもたすけてくれない。じぶんの人生をきめられるのは自分だけなのだ。

 


■人を評価するという事

 人が他人を評価するとき、一番に頼りなるものは数字である。

 

 目に見えてかつ基準が明確なものだからだ。

 

 就職活動で考えれば分かりやすいだろう。最も優秀な(最も会社に合った)人を採用するにはどうすればいいか? 100人の中から1人を選ぶにはどんな方法が効率的だろうか? 

 

 そのふるい分けに用いられるのがSPIなどの学科試験である。

 

 SPI試験の結果は必ず数字として出る。SPIの内容がどれほどまでにくだらなくて、実際の職務内容からかけ離れていたとしても、それはさほどどうでもよい。職務内容に合うかどうかはふるいに残った数人に、最終的にテストできればよいからだ。

 

 数字は大切だ。クリエイティブ職の面接にポートフォリオを持っていくとき、ポートフォリオのクオリティも重要ではあるが、最も重要なのはそのポートフォリオがどんな「数字」を生み出したか、である。

 

 PV数は? 文字数は? いいねの数は? 再生数は? クオリティはさほど問題ではない。Web小説、漫画、自作動画、ブログ、イラスト、どんなに良いものを作れても、そこに付随する数字が無くては誰も評価をしてくれない。有名なもの、つまり実績のあるものでなければ、我々は手に触れようともしない。

 

 インターネットのコンテンツだけではない、営業職では売り上げ数、研究者ではどれほどのIF(インパクトファクター)のある雑誌に論文が掲載できたか、世界中のほぼ全ての評価に、数字が関わってくる。それは、繰り返しになるが、数字というものが我々の社会に密接した概念であり、指標となり得るものだからだ。

 

数字が無くちゃ誰もみてくれないのだ。

 


■やりたい事とできる事
 
 ……と数字数字ばかり言っていると、段々と心を病んでいくに違いないだろう。

 

 僕自身、そんな事ばかり考えていると何だかつまらない人間になりそうで怖い。

 

 数字数字ばかり言わず、友達と遊んだり、何にも考えず散歩をしたりという事もすべきだ。大昔の偉い哲学者が曰く「常に中庸であるのがよい」と言ったように、一つの考えに偏るのではなく常にバランスを保つのがいいと思う。

 

 考え方が偏りすぎると軍歌を鳴らして黒塗りの車を走らせるようになるかもしれないし、ISISに入隊したりするかもしれないし、それはとてもヤバイ事だ。極度に偏ると戻れなくなるし、それはヤバイ。

 

 

 ところで数日前、某SIer事業・webメディア事業会社へ訪れた際に、お聞きした話の中で興味深いものがあった。

 

 それは就活生に向けた言葉になるのだが、簡潔にまとめると
 
 「やりたい仕事を選び、それを続けるのは偶発的な要因もあって難しいかもしれない」
 
 「だが、できる事というのは自発的に身に着けられる」
 
 「できる事を増やせば選択肢が増えるからやりたい事ができる幅が広がる」

 

 とても論理的で、就活生にとっても大切なお話だったと思う。
 ここで「やりたい/ない」はとりあえず置いといて、「できる/できない」について考えたい。
 

 

 結論から言うと「現実問題、できる事を増やしても選択肢は増えない」に尽きる。

 以下説明をしていこう。
 

 

 例えばの話、金融機関で働きたいが、選択の幅を増やすため、英語スキルを高めて外資系も狙いたい、とする。その人の現在のTOEICは380点。履歴書に載せるとかえって悪印象と呼ばれる域である。


 英語力を上げるため、英会話教室に通いTOEICの授業も受けて勉強をした。海外も行き、ある程度の会話も出来るようになった。さて、就活の時期になったとき、晴れ晴れとした気持ちで外資系の会社に面接にいった。

 

 TOEICの試験は数ヵ月後なので点数は更新されていないが、英語力は確実にあるのできっとアピールポイントにもなるだろう――結果的に、この人は英語力が「あるにはある」と思われたが不採用となった。


 何故か? 人の英語力を計る一番の方法は「数字」だからである。TOEICの点数を明示できない以上英語力は「あるかもしれない」に留まってしまうからだ。


 さらに言えば、試験が間に合ってTOEICの点数が650点に上がったとしよう。この人にとっては必死に上げた英語力の現れであり、彼/彼女はこの点数を誇りにも思っていた。

 

 しかし選択の幅を増やすために選んだ外資系大企業では(新卒採用の場合は実際分からないが)、「650点は中途半端」と思われるだろう。英語スキルは確かにある。だが応募してくる人の中には「TOEIC900点」などざらにいる。

 

 「650の人もいいけど900の人の方がいいからこっちを採用ね」とならざるを得ないだろう。

 


 もちろんTOEIC650点は、普通の会社で履歴書に書けばそこそこのアピールポイントになるだろう。内定取得率だってぐんと上がるはずだ。しかし最初の目的だった「選択の幅を増やすため、英語スキルを高めて外資系も狙いたい」は達成できなかった。
 
 この話の結論は何か? 「できる」とは、社会では0か100でしか評価されないし、「できる」を100にするのには大きなコストと時間がかかる、中途半端では「できる」と(実際できるのに)認めてもらえないという事である。
 
 


ポートフォリオが見てもらえない!

 

 さらに例を出そう。とある大メディア会社のTwitterで、youtube動画編集アルバイトの求人があったとする。

 

 これに応募しようとした月山馨瑞という男は、動画編集スキルを持ち、別名義ではニコニコ動画で50000再生取った動画を製作した事もある。

 

 だがその動画群は常識的に見せられるような内容ではなかったので、新たにポートフォリオ用の動画を製作しyoutubeにアップロードした。

 

 再生数は15程度と無いに等しいが、これは立ち上げたばかりのアカウントでは解決しようもない問題である。それに製作した動画のクオリティさえ見てもらえれば、再生数はさほど問題ない、この男はそう考えていた。


 アルバイトの結果はどうだったか? 結果は面接にすら至らず、メールでの不採用通知だけだった。

 

 原因はすぐ分かった。再生数である。

 

 おそらくは何百人も応募者がいたはずだ(募集条件の時点で学生でも難しい、フリーターのみの案件のはずだったが……)、そういった際に、採用者は全ての動画を精査する事などまるで無理である。

 

だから再生数でまずふるいにかける。ふるいにかかった人数が数十人になった所で、初めて動画を観るわけである。もちろん動画は全部観ない。精々十秒程度だろう(動画媒体の場合は飛ばして全内容を見てもらえるからまだ良心的だ)。


 もちろん僕は採用者が中身を観なかったと愚痴を言いたいわけじゃない。むしろ採用担当者はそうしないとコストが高くなってしまうから、効率的な手段を取ったまでである。
 
 つまり、こういう事である。

 

 ただできる事を増やしても、それが「できる」と認めてもらうためには数字が必要なのだ。

「できる」は、社会では0か100でしか評価されない。そういうシステムなのである。だから、現実問題、できる事を増やしても選択肢は増えない、何故なら「できる事をただ増やす事と、それを認めてもらうレベルまで高める事とは、雲泥の差がある」からである。

 


■我々が小説やブログを書くという事

 

 こういった事は当然、インターネットでのweb小説にも繋がってくる。

 

 すなわち、「貴方が(我々が)、webで作品を読んでもらうにはどうすればいいか?」


 インターネットではコンテンツが供給過剰になっている。漫画や簡単な記事なら数分で読んでもらえるからまだマシだが、web小説なんて地獄の極みだろう。買った本でさえ読む時間が無くて積んでいるのに、どうして面白いかどうかも分からないweb小説を読むのだろう?
 
 作品を公開する人間はあらゆる手段を講ずる。Twitterなどで宣伝する。宣伝にはイラストや画像を載せたり、試読用に小説の一部をアップロードする。専用のアカウントでリアルタイムでTwitterで小説をポストする。更新頻度を上げて何度でもツイートする。宣伝する。ツイートする……。
 


 全部無駄だ。
 


 上記で例を挙げた通り、根本的に認めてもらうには、数字が必要なのである。
 


 結局のところ数字が無くちゃ誰もみてくれないのだ。

 

 誰もお前の、俺の話には興味ない。読むわけがない。

 

数字が無ければ誰も見てくれないのだ。

 

 


■だから書き続ける。

 

 では我々はどうすればいいのだろうか?

 

 小説以外でもいい。我々のコンテンツを他者に見てもらったり、バズったり認めてもらったりするにはどうすればいいのだろうか?
 
 一つ、確実な方法がある。PV数など、他人の力が関わってくる数字ではなく、ただ自分だけの力で伸ばせる数字があるのだ。
 
 何か?
 
 投稿数である。
 
 数字を伸ばすたった一つの方法は「かきつづける」事である。
 

 

 ポスト数だけなら自分の力だけで増やせる。投稿頻度だけなら自分の力だけで縮める事が出来る。1つの名作より100の駄作の方が勝る。読んでもらうには、認めてもらうには、その何十倍ものスケールで書き続けなければいけないのだ。
 


 小手先の技術など役に立たない。
 ただ「大量に書き続けるしかない」のだ。

 

 

 

おわり(この事を真に理解したのが数日前でしたという話でした。遅すぎる!)

 


 あとTwitterのフォロワーとか伸ばすのもいいかもね。買うとか。

【雑記】「何もしない」時間をどう過ごせばいいんだろう。

 

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電車に乗るとみんなスマホをみている。みていない人を探すのが大変なくらいだ。でもスマホが出来る前、みんなは電車で一体何をしていたんだろう? 本や雑誌を読む? それとも何もせず、鉄輪が線路を駆け抜ける音にぼんやりと耳を傾ける?

 
 終わった。

  ようやく終わった……。
 
 ここ二週間心身を擦り減らし、とある仕事に取り掛かっていました。それがようやく終わったのです。まあ卒業論文に関する事なのですが、長くなるのでここでは割愛します。
 
 さて二週間地獄の日々を過ごし、ようやく長い休暇を取る事ができるようになりました。とうとう終わったと安寧の気分で休む事にしました。
 
 ……休む?

 

 ……休むってどうやるの? 

 


■休むってなんだよ(意味不明)

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 取り敢えずハースストーンをやりました。

 

 ずっとゲームし、ゲームに疲れたら惰眠を貪り、だらだら飯をくったら酒をかっくらいながらまたゲームをします。

 

 ニコニコ動画FE封印の剣の動画を見ながら、elonaというゲームをしながら、手元のスマホリネージュ2レボリューションをやる(+酒を飲む)という驚くべきマルチタスクをしていました。
 


 卒論提出……もとい仕事終わりから一日しか経ってないのに「あれ? もう二日経った!?」と体感時間が二倍に感じました。それだけ、忙しい時間の時はずっと何かをしていて、体感速度も速くなっていたのです。

 

 
 次の日(今日)になって、少し気持ちが楽になりました。

 

 朝コーヒーを飲んで、Twitterに載ってた腹筋法をやってトレーニングして、疲れたのでベッドに横になりました。

 

「うーん……なんかスマホTwitterでも見るか」

 
 ……そういう事を思って、自分の思考に、違和感を覚えました。
 

 「何もしない」って、どうやってやるんだろう?

 

 

■「休む」ってどうやればいいのだろうか

 

 実はここまで書いていて既に疲労感を覚えてます。やっぱり自分は疲れてるんだな、と思いました。二週間全然飯食わずに、強いストレス下で家族と喧嘩になったり内定辞退をしたりと苦しい環境にいましたからね。
 
(……内定辞退については話すと長いのでまたの機会にします。一つ言える事は、来年度から僕は無職です。へけっ!)

 

 きっと休むっていうのは「自分の好きな事をする」OR「何もしないをする」という事なんだろうなと思います。(いろんな人から意見を取り入れて、ようやく分かった事でした)。

 

 僕は、実は「休む」という事がとても苦手です。どうやればいいのか分からないから。なんか好きな事をすればいいというけど、ゲームや読書というのも集中力を使うので結構疲労感を覚えます。ストレス解消の手段も酒くらいしか思いつきません。
 

 だから僕が休む方法としては「何もしないをする」方が色々と良かったりする。でもどうやってやるんだろう?

 

 ここで一番上の『電車のお話』が本筋にかかわってきます。
 


■今と昔の電車のじかん

 僕はよく電車に乗るのですが、乗客を観察してみるとスマホを見ている人ばかりな事に気付きます。電車など暇な時間はみんなスマホを見ます。きっとこれを読んでいる人もそうでしょうし、僕も例外ではありません。


 
 車内はとても不可思議な空間です。みんなが皆、小さな画面の液晶に目を凝らし、乗車中の暇な時間を潰している。

 

 本や新聞を読んでいる人も少数派ですが、それ以上に「何もしていない」人はなかなか見つかりません。

 

……


 ところで僕は小学六年生くらいから定期的に電車に乗り始めました。中学受験用に塾に通い始めたからです。

 

 僕が小学六年生というと、大体2008年くらいの頃ですね。スマホはまだ普及していなかったと思います。


 あの時の事を思い出します。あの時山手線に乗っていた頃、周りの乗客は何をしていたんだっけ? あんまり思い出せません。あの頃は確か携帯電話(二つ折りのあれ)があって、でもそればかりを見ている人は、普通ではあったけど多くはなかった(と思う)。
 

 


 もう少し昔に遡ってみましょう。1960年代とか、1970年代とか。

 言わずもがな僕は生まれていないので、想像に身を任せるしかありません。その時は携帯電話すらなくて、駅前の掲示板に待ち合わせの文言をチョークでどうのこうのって時代でした。……その頃、電車に乗ってた人は一体その間何をしていたのでしょう。

 

 通勤ラッシュの時はまあ何にもできないと思いますけど、じゃあ昼間の座席に座れるような間は? まあその頃も雑誌はあったと思いますけど、ウォークマンが発売されてすげえ! とか、たぶんそんな頃。みんなウォークマンとか聞いてたのかな。
 

 


 さらに遡ってみましょう。1900年代です。

 

 森鴎外の短編小説「有楽門」(1907)では市街電車に乗り込む人々が描かれてます。
 (「鴎外全集 第三巻」岩波書店 昭和47年より引用された……ようです。気になる方は取り寄せてはどうでしょうか。僕は大学の文学論でこれを読んだのでそのコピー紙しか持ってません……とても短い、数千字ほどの小説です)。
 
 上小説内では車内を描いた作品では無いので分かりませんが、きっと車内でタバコが吸えた時代だったのでしょう。痰壺だってあったと思います。
 


 でも当然イヤホンで音楽は聞けません。本や雑誌はもちろんありますが、おそらく外に持ち歩いて暇つぶしに読む、というものではなかったでしょう。きっと外の風景を楽しんだり、ただ路面電車の線路と車輪が軋んで揺れる音をただ聞いていたのかもしれません。それは「何もしないをしていた」とも言えるのではないでしょうか。
 
 
■きっと僕たちは「何もしない」に慣れてない。

 

 鴎外にはとんと詳しくないのですが……森鴎外の長編小説に「青年」というのがあります。

 

 僕はそれを勉強の意味も込めてちょっと前に読んでみました。感想とかは取り敢えずおいておいて、内容は、二十代の僕と同じ年代の青年の生活を色鮮やかに描写した教養小説でした。


 小説の中で主人公は、暇つぶしに散歩をしたり、家で読書をしたり、友人と論議を交わしたりしていました。
 
 100年前の青年は、何ら我々と変わりありません。

 

 ただたぶん違う部分の一つには、「何もしない」に比較的慣れていた、というところがあると思います。
 


 うまくは言えませんが、僕も「何もしない」をする事が、以前は多かったです。去年は今より少し暇だったので、たまに大学近くの公園で寝そべって、好きな音楽を聞きながら日向ぼっこをしていました。ゆっくり流れる雲を眺めるのは、結構気持ちのいい事です。

 

 ここ一年間はとても忙しくて、そういう事がほとんど出来ませんでした。もし社会人になっていたら、今からも忙しくなっているので、そういう事は出来ないでしょう(しばらくは)。
 


 ここまで書くのにとんでもなく疲れてしまいました。ここ二週間で相当に心身が付かれている事をひどく思い知らされました。もう少し暖かくなって、花粉が飛ばなくなったら、また好きな音楽を聴きながら青空を眺めたいです。


 これからは「何もしない」に慣れていき、生活に取り入れたいたいものです。

 

 

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おまけ:20160522_050743の大宮のごちゃごちゃしている商店街から見えた朝空

 

 

 

 

【報告】20190216生存報告・創作活動等の進捗状態について

 

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一年ほどがんばりすぎたから、一か月ほどやすんでもおこられないとおもう、よ

 

 

 抑うつが最悪になったので就職まで療養をしています。抑うつというか僕は抑うつ状態の時に泥酔すると物をぶっ壊し、家族に迷惑をかけるので、自主的な判断で療養せざるを得ないと判断しました。

 

 具体的には三月の最終週までかかると考えられていた教習所への通学を中断するが主です。予定だとかなりのハイペースで通わなければならないので、兎にも角にも負担が大きいのです。
 
 それはそれとして小説などのインターネットの活動を再開しようとは思っております。以下各々のプロジェクトについて予定や進捗などを書いていきます。
 
■連載中『ペンは魔法剣よりも強し』の定期投稿再開

 忙しくて出来ていませんでした。理由はブラック研究室などです。
 
 基本的にインディーズなネット小説はそもそもの投稿量が大量にないと誰も読まないと考えています。上小説は50話貯まるまで広告もほとんど貼らず、ただただ独りでカクヨムにアップロードする予定でいました。
 
 今でもその考えはほとんど変わりません。ただ、まあ投稿した直後くらいにはツイートはしようと思います。
 
『ペン魔法剣』は私の鍛錬の一環として更新していく予定です。あんまり『読んでもらおう!』と思って広告をする事はありません。PV数、というのがあるのですが、その数字からそんな事をするのは労力とモチベーションの無駄だと再認識しました。
 
 それから二週間から三週間ほどに間隔を広げますが、これは単にストックが切れたからですね。
 
 そもそもインディーズ小説というのはピンキリです。良い悪いもあれば読者の好みもあります。そういう中で知名度の低い人が書いた小説は絶対に読まれません。
 
 読まれるようになるには大量に投稿して「こんなに投稿しているならまだマシなんだろうな」と思わせるか、あるいは執筆者自身が何らかの強さ・有名度を持っている必要があります。
 
 強さ、つまり経験値を得るには小説以外の方法を取るのが手っ取り早いです。私の場合、『裏稼業』のような動画投稿をこちらでも行って、Twitterの動画で面白い人→その人の小説、というのが手っ取り早いでしょう。
 
 ※『裏稼業』:私が別にあんまり隠してない別アカウントで行っている、ニコ動のとあるジャンルの動画製作。ああいう二次創作だとか音MADとかはオリジナルに比べて一万倍(誇張なし)PV数が稼げます。世知辛い。
 
 要は執筆者の信頼度が読者の「覗いてみようかな」という意欲につながります。つまりもっとなんか、こう何か別の事をすべきなのかもしれません。
 
兎にも角にも『ペン魔法剣』は、私のトレーニングの一環として書かれる事になるでしょう。トレーニングとはつまり、一般的な面白さを作り出す訓練です。頑張りましょう。

 

 こういう話は『金にとても貪欲な人の話』みたいで自分でも気持ち悪いですが、現実はかなり厳しいのでしょうがありません。次行こうぜ。

 

■連作短編小説の予定
 上とは別にして、自分が人生の節目を迎えたという事で、私が影響を受けた様々な作品を、元ネタとした短編小説を連作としてアップロードしようか、などと考えています。ですが上記の方が優先されるので私の体調が元通りにならない限り、この企画は延々と延期される事でしょう。


 
■過去の小説作品のアップロード
 現在私の手元にはインターネットに未公開の小説が二本、か三本あります。これを分割して定期的にアップロード。カクヨムとnoteの同時更新を予定。これはしっかり宣伝をします。とても真面目に宣伝をする事で宣伝の経験を得たいからです。
 それから上の作品も校正を行わなければ、ですね。だるいですがやりましょう。 


SNSを頑張る。
 頑張ります。より多くの人に認知されるためにです。
 ・ツイート量を増やします。
 ・いっぱい人をフォローします。
 ・人と交流をします。
 
 小学生みたいな目標だな。
 
 あと、はてブロやそのほかのSNSの導入を努力します。
 
■ブログ更新の頻度を上げる


 こういう下らないネタなどを増やす事でブログの記事数および投稿頻度をUPさせます。


 以前は「なんかこう……しっかりしたものを書かなきゃいけない」みたいな気持ちでいたので、ブログをやるのにとてもエネルギーがいりました。あとネタがない。
 
 でもこういう音楽がいいみたいな、そういう感じにレベルというか「気持ち」を落として、気軽に文章の練習をする感覚で書こうと思います。
 
 現に今の文章は何にも考えないで書いてます。とても楽です。前回の美少女の内臓はエロいというのも、ちょっとだけしか脳みそを使ってません。あれ書いてたの深夜だしな。
 
 でもその分無駄な文章を削ったりまともなものにしたりと、翌日作業をしてまた疲れてしまったので、これでは本末転倒な気がします。よってこういった進捗報告系の文章は何の校正もせずに行う事にします。書いていると認知される事が、重要。
 
■いろんなものを知る。観ていく。
 これはどんな人生でも大切な事です。自分の興味範囲を広げていきましょう。
 
■トレーニン
 一日家にいると疲れやすくなってきます。一日三十分くらいは筋トレだったり走ったりをしようかなとか、考えています。じゃないと就労後死んでしまう。
 
■外部活動の活発化
 サークル『木曜喫茶』に所属(←一旦逃亡している)ので、積極的に活動に参加していこうと思っています。今もslackで彼らとはやりとりしたりしなかったりします。大抵はゲームの話です。
 後四月から五月にかけて、私が書いた中編小説がとあるところで発表されるので、その時にまた宣伝をしっかり行います。
 
■面白い動画を作る
 これは思い付きです。やったりやらなかったりします。
 
■漫画や絵を描いてアップロードする。
 これは思い付きです。やったりやらなかったりします。

 

以上 20190216生存報告でした。

 

今回の生存報告のフリー画像

 

ぱくたそ様にはいつもお世話になっている(『裏稼業』で)ので、生存報告のブログ記事には画像を使わせていただきます。
www.pakutaso.com

 

【雑記】何故人は美少女の内臓に興奮するか?(美少女人体模型の話をうけて)

 

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紀元前より人は狩った獣を内臓から骨まで利用したが、人間の場合はどうであろうか。

内臓、いいですよね、美味しいですよね。

 

 

もちろん、肉牛の話です。

 

■焼肉

 

 僕は牛肉の部位とか種類とかさっぱり分からなくて、焼肉店なんかに行くと

 

「カルビ……? ハラミ……? なにそれ……?」

 

 と常識が欠けているので、大抵注文は他人に任せてしまいます。でも最初に牛タンを焼くと油で火力が上がって良く、また好みなので出来るなら注文します。

 

 ところで、ホルモンって旨いですけどグロいですよね。要は牛の腸や胃を焼いているわけで、牛の筋線維ではなく内臓を食べている。グロい。でも皆食ってる。

 

 もちろん昔はもっと畜産が人々の身近にあってすなわち屠殺や解体も生活の一部となって(いた場合が多い)いました。が、現在の我々はそういうものから離れた生活をして、スーパーで肉を買う事=食べる事である人がほとんどでしょう。

 即ちみんなグロいものを焼いてグロくないものにして食べてる

 

 不思議ですね。

 

 

■美少女の人体模型とその内臓

 

 で、何でこんな話をしたかというと。

 

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※下サイトより画像引用

gigazine.net

 

これ見たとき

 

『めっちゃエロいな』

 

と思ったんですよ、僕はね。僕はね。

 

news.yahoo.co.jp

 ヤフーニュースでの園田氏もこのプロジェクトに言及しています。

 

 彼の「美少女人体模型で学生が学ぶ」という言及は、個人的には非現実的で飛躍している思いますが、それを除けば、彼の考察は的を得ているように思えます。

 

遠野物語』で有名な柳田國男が、「殺生の快楽は酒色の快楽の比ではなかった。罪も報いもなんでもない。」との言葉を残しています。いろいろな殺傷犯罪を見ていると、まさに人間は、殺生や猟奇的なもの、あるいは残酷なものに、本能的に感応する素質をもっていると思わざるをえません。〈美少女人体模型〉で生徒たちが「勉強する」場面を想像したときに感じた不安感も、まさにこれと同質のものでした。

 

 たまたま僕が遠野物語について勉強をしていたので、その範囲内で言及します。

 

 遠野物語には、人間が、人里(常界)から身近でありつつも危険な山(異界)へと「入る(這入る)」話がほとんどです。

 

 そして、猟師は山に対して異界に対峙(ただし猟師以外では男といえどもその限りではない。むしろ里人は無力に描かれる)するのに対し、女性は山側(異界)に近く霊的な存在であるというのが、遠野物語では描かれています。

 

 遠野物語に限った事ではなく、女性は霊的なものを持っているという物語が時代場所を問わず存在しています。巫女、贄、異界の怪物との婚姻と出産……。

 

 

■美少女から霊的な『中身』を持ち出す。

 この件は取り敢えず置いといて、まず何が言いたいかというと、僕が考えたいのは『何故(一部の)人は美少女の内臓に興奮するのか?』という事なんです。

 

 これはR18、いわゆるポルノに属する界隈では、「リョナ」という分類で結構な創作活動も行われていますよね。※無論、大抵の場合では、外界に持ち出されないよう『敷居』を作っていらっしゃいます。

 

 その分野についての言及はともかく、我々人間の一部には、美少女(≒性愛対象)に対し暴力的・制圧的・そして『中身を向こう側からこちら側へと引き出す』、という行為に嗜好を持つ人がいます。

 

 さて、この論理を繋げてみましょう。

 

 美少女とは霊的な存在です。

 

 そして、その中身は『人里に対する深山』の如く、異界的、霊的であります。

 

その中身を取り出して、異界のもの(美少女の中身)をこちら側(人の社会)に持ち出す。

 

リョナ絵というのは、もしかしたら、そういう試みの一貫なのかもしれません。

 

■結言

 乱雑でややこしい議論(議論?)でしたが、簡単にまとめてしまうと

 

『美少女の内臓は(霊的で)なんかエロい』

 

と仮説づけられるのでは? というのが僕の結論でした。結論:美少女のゼンマイはたぶん旨い。


多分動物に対しても、こういった『中身にある霊的なもの』を取り出す儀式というのが、昔は各地であったように思われます。例えば牛の血液を大量に飲む儀式、人間に近い猿を食す儀式、胎児を食べる儀式……。それはそれとして獲った獲物を脳みそまで美味しく頂く、毛皮や骨もしっかり生活に活かすなどの文化もありますので、こういうのは混合しないほうが良いでしょう。

 

※この文章にある考察はあくまでテキトーに喋ってる一種の酒場談義のようなものです。文化人類学を専門としていない人間が書いた文章という事にどうかご留意下さい。

 

参考文献

遠野物語 遭遇と鎮魂」編者 河合俊雄・赤坂憲雄 岩波書店

 

■蛇足

 居酒屋に行くとたまに注文できる食べ物に「刺しゼンマイ(センマイ)」があります。あれも見た目は中々凄まじいものです。数年前、僕が漫画研究会の後輩二人と一緒に、大学近くの居酒屋に行ったときに、このゼンマイというものを注文しました。どうやら生らしく(よく分からないが要は冷たいもの)、見たときは肝を冷やしました。何か黒い皮のようなものに毛穴がブツブツと生えたような見た目でしたから。しかしグロテスクな見た目に対しとても旨い! 僕は牛のレバー以外たいてい食べれるんですが、ゼンマイは僕の好みに近いハツとかスナギモとかに似てて、今度来たら注文しよう! と思ったくらいでした。ちなみにゼンマイとは牛の第三胃らしく、比較的さっぱりしているとの事。油に弱い僕にも安心の部位です。



私は生まれ変わったら柴犬になりたい(それから、私のここ一年の結構くらい話)

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 朝飯を食う時間が無くて研究室で一人カップ麺を食っている。食べきったと思ったが、ふと、机に取りこぼした長い麺を見つけたのでスープの中に入れて改めて啜った。自分でもひどく意地汚いと思った。

 

 


■ここ一年間の月山馨瑞のあらすじ

 ツイッターでもごちゃごちゃ言っていたが、そういう断片的な情報を集めた、ここ一年あたりの私の近況を箇条書きする。

 

・ブラック研究室に入ったパワハラなど)。
・二次配属(ゼミに遅れて入ってくる成績の悪い人達)だったので引き継ぎを全く受けられないまま、実験に入った。
・ブラック研究室に拘束されながら就活突入。要求量が高いので就活が上手くいかない。
・仕事を見つけなければいけないプレッシャーと、研究室の現実とで板挟みになり、精神を壊す。
鬱病希死念慮がひどくなる。
・6月初旬精神科通院開始。
・二人だけ馴染みのある人がいたが、その仲間がどんどん辞めていく。
・9月まで就活がまともにできない。
・9月初旬でキレて研究室を出る。一ヶ月間就活をしまくった結果9月末に内定取得。
・大学生課など様々な所に相談したが、研究室を辞める事はできないとの事。仕方なく10月末復帰
・快復していた鬱病がひどくなりながらも、研究室に通い続ける。
・今に至る。

 


以下、自他ともに私の事を振り返るため、ある程度文章を書いていこうと思う。


主に研究室関連の話なので省きましたが、『とある女性にゾッコンになるが、相手はその気でなく、最終的には彼女を傷つけて連絡不通となる』というストーカー的な事もやっていたのですが、取り敢えずここでは……置いておきます……

 


■研究者という人間はひどく特殊だ。
 

 何故私が、研究室を失敗してしまったのか、それがいつから始まったのか、実の所説明するのはとても難しい。ただ、誰が悪いだとか、環境が悪いだとか、そういう一つずつの小さな要因が、幾多にも絡み合って最悪の現状を作り出してしまったのだと思う。だから、取り敢えずは、私という一つの視点から見て、物事を一つずつ追っていき、その度に検証していくのがまずは手っ取り早い方法だと考えられる。


(こういう事を書くと身バレをするけれど、私はそういった物事に関心が無いのでこのまま進める)私の研究室は、修士生が一人しかいない状況だった。つまり指導・アドバイスしてくれる人がほとんどいなかったのだ(教授は指導しない)。

 

 少なくとも私は、遅くから研究室に配属されたから文字通りそこからのスタートであった。たった1人のM2も口下手だったし、そもそも私の研究グループに属していなかった。ノウハウの継承が行われない。情報がどこに保存されているかも分からない。何をすればいいかすらも分からない。まず、どこに資料があるかさえ分からない(無論他のB4生も頼りにはならん)。


 理由その1『全て一人で行わなければならなかった』

 

 さて、この大学は小さいので准教授とか助手とかそういう人間は存在しない。研究室を監査するのはたった1人の教授だ。そして教授になろうとする人間は大抵、コミュニケーション能力ならびに社会的能力が大幅に低い、あるいは偏っているのが多い。


 私の上司にあたるこの教授は、とても特殊な男だった。どう特殊かというと、

 

・頑固な団塊世代
・基本的に話しかけると嫌な顔をする
・基本的に要求量が多い
パワハラ
・雑談が政治の話しかできない
・就活をさせない
・普段は教育に不熱心(なおゼミの時間は質疑応答にとても長い時間を取るので、カウンセラーからは「教育熱心な先生」と思われているようだが、それなら定期的に実験の様子を見たりだとかすべきだと思う)
・典型的な研究者タイプ

 

 この『研究者タイプ』というのがクセものである。長くなるのでこれについてはまた今度の機会に書くが、この『研究者タイプ』の人間が私はとても不得意であった。無論唯一の古株だったM2も、この研究者タイプである。
 

 端的に言って理由その2『人が合わない』

 

 その他、コアタイムが一般会社のそれとほぼ変わらない事、B4の人間関係構築の崩壊によってコアタイム中誰も喋らない事、研究がクソつまらんなど、様々な要因によって『環境が悪い』研究室となってしまった。これが理由3。

 

 


■大学はもはや研究機関として崩壊している。

 20世紀から21世紀にかけて大学は数を増やし、またその形態を変えていった。
 

 端的に言えば大学は研究機関としての機能を一部失いつつある。

 崩壊していると言ったほうが正しい。
 

 教育論については専門外であるが、恥を忍んで論じる。元来大学というのは文理関わらず研究機関であった(はずだ)。入学した大学生はより高等教育、あるいは専門教育を受け、中卒者高卒者よりも高い専門性を得る事となる。特に理系学生は教授の元で、修士過程・博士過程に進み、より優れた研究者へとなる。


 つまり過去の大学では、大学生は『勉強/研究する為』に入学し、その専門分野の技術で(企業・大学に)従事するのである。


 だが日本という国が富むようになり、また技術発展による科学分野の細分化によって、大学進学率は増加していく事になる。

 

 この時社会と大学との関係に綻びが生まれた。

 

 専門性を持つ大学生が増加し人材として社会に供給されるが、社会の企業とその専門性は必ずしもマッチしない。深く狭い知識を持った大学生が多くなったからだ。

 対して企業というのは水処理からコンピュータまで千差万別だから、当然噛みあう事は難しい。


 大学への若者の供給は多くなる。だが大学の研究に人はたくさんいらない。
 結果、企業就職を選ぶ学生が多くなる。
 当然、企業側としても大学新卒採用率が高くなる。
 その結果起きたのが『大学のアミューズメント化』である。――大学は研究機関から最早『就職予備校』へと変化してしまったわけだ。


 研究室にいるのは研究に人生を費やした初老の団塊世代
 対してやってくるのは研究をするのに必ずしも向いていない、様々な思想・目標を持った学生達。無論、彼らのほとんどは学士で卒業する。専門分野に就ける人間はわずかだ。


 大抵の場合、何年も続いている研究テーマを教授は学生に引継がせるものだ。しかし無論、研究にモチベーションのない学士では、その研究を大幅に進める事は困難である。

 

 ある研究室の、数年間の研究進捗は学士卒がいればいるほど悪くなっていくはずだ。

 知識を持ってじっくり研究を進めるベテランがいないからである。


 つまりここで綻びが生じてくる。大学は研究機関であったはずなのに研究の効率は悪くなっているのだ。


 これにはまた様々な理由(教授が授業を受け持っていて研究に集中できない、など)があるのだが、(不勉強だし)取り敢えずここで終わらせて、私の話に戻りたい。


ダブルバインド

 

 自分のしたくない事をする。

 自分の合わない人と生きる。

 これは結構しんどい事だと思う。こういう環境で働いてる人はすぐにその会社を辞めたほうがいいですよ、人生の無駄なので)
 

 

 だが私の場合辞められなかった。私には既に500万円をやすやすと越える入学・授業費を支払っていたし、それを無為にして中退する事は出来なかった。仕事に就いて、家を出る必要もあった。

 

 その為就活をしなければならなくなったが、研究室ではタスクの要求量が大きく、就活は上手く回らなくなってしまった。私は元来、人に怒られたくない、失望されたくないというタイプの人間だったから、性格の合わない教授に認められようと、当初は努力していた。ただでさえ、遅れて入ったのだから。


 だが苦しい。

 

・研究室で努力しなければならない。(大学を卒業しなければならない)。
・就活を早く終わらせて仕事を決めなければならない。
・合わない人とやっていくのはとても苦しくて、厳しい。


 こういった矛盾する命令を心の中に両方共抱き続ける事を心理学的な用語で『ダブルバインド』という。


 こういった精神状態に陥った結果、元来鬱気質だった私は精神科に通院する事となった。

 

 

■就活は、生きがいを感じた。

 それから様々あった後、私は耐え切れなくなり、教授と絶縁する事に決めた。もう顔も見たくないという状態になった。研究室から出て行ったのは9月の初め。それから一切顔を見せなくなった。

 

 研究は苦痛の極みだった。教授は学生を評価しないし、内容は私の興味の無い事だったし、実験も単調でつまらないし、何より打ち止めになっていたのだ。研究はこれ以上進まない、どうしようもないという所になっていて、私はその最後のくだらない検証をするのみだった。だからやりがいも感じないし、何故こんな苦しい思いをタダでしているのか理不尽しか感じなかった。


 しかし、就活は楽しかった。
 とても苦しかったし当時は追い詰められて焦燥感でいっぱいだったが、しかし生きがいは感じていた。説明会なり面接なり、ES作製なり業界研究なり、その行為は完全に私の為にされていた事だった。その時私は、人のためではない、自分のために生きる事が出来た。


 色んな人との出会いがあったし、もう研究室にはいかなくていいという希望もあった。教授に、研究室のメンバーに会わなくていいという気持ちだけで、もう十分だった。自分のために生きるのはとても楽しいと思った。

 内定式直前に私はとある会社に内定をいただき、無事10月を迎える事ができた。

 


 そして、ここから真の地獄が始まる。

 


■大学はムラ集合体/大学にセーフティネットは無い


 内定を決めた私は取り敢えずカウンセリングに訪問した。
 理由は研究室の変更をし、指導教員を変更してもらう方法を伺うためである。

 
 結論から言うとカウンセラーはゴミだった。
 私の話した内容は以下の通りである。

 

「私はもうあの教授と一緒にやっていくのは無理だし、パワハラは他の学生にもされている。何より既に二人研究室から学生が辞め、休学しているのがその証拠だ。内密に行われた事だが、指導教員の変更は実際に行われたという話もあるし、卒論免除だって可能だ。何故なら私は精神科に通院しているし、何なら診断書だって提出できるのだから。そういう事をするのにはどうすればいいのか、貴方を通せばいいのか、あるいは別の機関に話を通す必要があるのか。どちらにせよ、私はあの教授の元につくのは耐えられない」

 


 それに対しカウンセラーは以下の一点張りであった。

 

「そう言った話を私は聞いた事がない。大学というのは、然るべき卒業認定を取らなければ卒業できないし、そこに例外は無いはずだ。だから頑張って教授とやっていくしかない。教授には私から助言をするが、強制力はない。話を聞けば彼は教育熱心な人だと思うし、上手くやっていけるはずだ。パワハラの相談室なら紹介する事ができるが、しかし卒業認定は取らなければいけないし指導教員を変える事も出来ない。そういった前例は存在しないからだ」

 

 カウンセラーは私を頑なに研究に従事させたがっているようであった。おそらくは自分自身の職業的な立場もあるのだろう、私を頑なに説得しようとしていた  
 

 

 私は絶望した。
 正直ほんとうに目の前が真っ暗になった。


 私は被害者意識を持っていた。ある種、私は教授らに精神を壊され、精神科に通院している身だし、何より私(の親)は教育費を払っているのだ。多少の権利の主張くらい許されているものだと思っていた。だが、駄目だったのだと思う。色々と……


 「」内で私は一切嘘をついていない。全て過去に起きた出来事である。だがそれは物的証拠によって示されなければいけないし、もしそれがあったとしても、私は卒業認定を軽くする事すら適わなかっただろう。それはある種、当然の事だった。

 

 私の甘えでもあったのだと思う


 だが私は、教育機関にしては研究室はあまりにも不透明すぎる、と主張したい。


 本当に大学が教育機関なのであれば、卒業研究というのは指導教員のさじ加減ではなく客観的な規範に沿って行われなければいけない。

 

 また、本当に大学が研究機関なのであれば、就職コースと研究コースをそれぞれ設けてゼミナールを分ける必要があるだろう。(実際、入学してから一年ほど理科系の基礎を学んで、それから機械系、化学系とコースを決める学部が北大などに存在する)。

 
 ここ一年程様々な研究室や大学の様子を見て感じた事は、研究室はそれぞれ小さなムラ社会である、という事である。村長(教授)が全てを決め、彼のさじ加減で成績が決まる。それがどんなに非社会的であっても、それを監視する機関は存在しないし、学生の我々は何にも反駁する事が出来ない。何故ならそこは閉ざされたムラなのだから。

 

 さらにはムラ同士が(つまり教授同士が)閉ざされたコミュニテイを持っているから、学科自体の運営も閉ざされた、風通しの悪いものとなる。

 

 

■身体が壊れた。

 

 私は研究室に復帰した。

 ただただ従うのみであった。

 

 幸い、教授の態度は軟和した。
 カウンセラーから私の現在の状況(精神科通院など)、タスクを減らしてほしいとの要望が伝えられた為である。

 

 これからは研究をして卒業論文を書かなければいけないのだ、と私は思うようになった。


 だが、研究室に通うのは辛かった。
 何がストレス要因になっているのか分からないのが一番辛かった。
 交友関係もある程度は構築できている。人間関係は悪くない。
 しかし研究室に一日中いるのはとても苦しかった。時間がひどく長く感じた。


 あんまりにもストレスを感じたので身体が壊れた。
 顔面の筋肉が痙攣するのは前からあった。
 だが、大学にいると時折身体の痙攣が始まるようになった。
 全身の筋肉がびくびくと痙攣を起こし、ひどい時は手の震えで感覚が無くなるようになった。


 これは堪えた。やろうと思っているのに身体が動かなくなるのだ。


 本当に私は壊れてしまったのだと思った。


 しかし頭を壊され、身体も壊された環境に今も向かい続けなければならないというのはお笑い種である。

 


■生きがいが見つからない。


 こうして、今に至る。
 これが私の3月から12月までの報告である。
 本当に、一年で何もかも変わってしまったと思う。


 こう言ってしまうと何だが、幸い身体の痙攣は、最近無くなってきた。薬によってある程度緩和する事も出来る。だが途方もない疲労感や無力感、強いイライラはひどくなったりひどくならなかったりしている。よくわからない。


 一番苦しいのはこういう事に理解者がいないという事である。私のような人間で、私と同じようにこういったブラック研究室に入った人間は、友人に誰1人も居ない。本当に、誰1人も居ないのだ。似たような環境の人はいて、ある程度みんな研究室に不満を持ってはいるが、しかし基本的に楽しくやっている。

 

 また、私の家族は大学のゼミナールそのものに理解が無く、私の愚痴や悩みというのを理解しようとはしない。


 そういう意味では、私の所属する研究室は偶然、ある種奇跡的に生まれてしまったブラック研究室なのだと思う。

 

 また研究室が多種多様だからこそこの大学ではセーフティネットも育たなかったのかもしれない。


 最近はひどく空虚で厭世的に生きている。何のために生きてるのか分からない。
 小説や漫画の話をとある所から貰ったので、それを作っている時は、人生の事を忘れられて楽しい。しかしそれもまた、苦しくなってきた。結局のところ私は何も書けないのだという無力感がずっと蔓延している。抗鬱剤は飲んでいるし動けないという事は無いのだ。だからこれはそれとは別の症状だと思う。これだけは何とも耐え難い。


 それで、今日考えていたのは、私は『怒り』を燃料にして生きる必要がある、という事だ。怒りを使って、あるいはそれ自体を描いて、文章なりを作っていく必要があると思う。というよりは、そうしなければ私はもう死んでしまうと思う。


 こういう文章は需要が無いし、今までは書くつもりもアップロードするつもりも無かったのですが、そういうわけで自分が生きるために載せようと思います。こういうのを読んで、共感などをしてくれる人が一人でもいたら、それでいいと思うのです。もちろん、いなくてもいいです。